中垣:先週、ニューズピックスの有料版で落合陽一の動画を観ててんけど、禅の回があったのね。
松田:あったな。
落合陽一〝禅・マインドフルネス〟を考える – NewsPicks→
中垣:「禅とマインドフルネス」って言って。そこで落合陽一は変なこと言ってへんかってんけど、そのときに来てた坊さん二人がね…本人的には分かってるっぽかってんけど、なんかすごくイズムっぽくて。
松田:あー…
中垣:その坊さん二人が妙に対立してるのね、解釈の違いとかで。そういうのって禅じゃなくねって思って。
松田:うんうん。
禅は外側のない円周の内側全てなので、解釈の違いとかあり得ない
中垣:そこで落合陽一が言うのが、いわゆる座禅を組むっていうのが禅の中ではあるわけだけど、そうじゃなくてもスポーツの中とかでも、ある種の集中の状態みたいに、悟りではないけどそれに近い経験って得られるんじゃないかって。
LSDとか大麻とか…
中垣:それはある意味ではそうじゃないかと、おれは思うねんけど…
松田:うん、おれもそう思うよ。
もちろん、ここで「ある意味では」とある通り、仮に刹那的、受動的に神秘的合一を経験することがあったとしても、それをもって悟りだとは禅は断じて言いません。禅は積極的、主体的な態度をまず第一に要求し、その主体性抜きに得られた経験は、それがいかなるものであっても悟りからは大きくかけ離れたものです。
中垣:でもその坊さんは「いやだから…」とか言ってて。
松田:笑
中垣:で、そこでおれがすごいむかついたのが、その坊さんいわくやけど、今言われているようなマインドフルネス以前の近代の禅は、心を忘れる、置いてけぼりにすることで、怒りとかモヤモヤした気持ちみたいな煩悩っぽいものを解決しようとしていたんだけど、でもマインドフルネスでは心を置いていかずに、心も含めて取り扱おうとしているのが新しいポイントだ、って言っててんな。
松田:うんうん。
中垣:じゃあそこで具体的にどうやって実践するのかって言ったら、自分をメタに捉えるんだって言ってて。
中垣:例えば『シン・ゴジラ』はすごく怖く映るように撮っているけど、庵野監督にとっては自分の作り出したものだから怖くないでしょ、って言ってて。そういうふうにしてしまえば自分の置かれている環境っていうのが分かって、自分の怖い気持ちとか悩みとかがなくなるでしょ、って。
松田:うんうん。
中垣:いや、それって禅じゃなくね?っておれは思うわけ。まあその坊さんも、そう言うといわゆる客観視するみたいなことと誤解されるんだけどそれは違くて…とは言ってて、彼的には何かしらしっくりきてるところはあったぽいねんけど、いかんせん言葉の運用が甘過ぎて伝わらんねんな。
松田:うんうん。おれは今まで禅についていろいろと本を読んできて、それなりに考えるところもあるというか、自分のモヤモヤとしたものに向き合う中で禅が大きな主題やった時期が非常に長かって、禅ならなんとか扱えるという気持ちでおるねんけど…
中垣:うん。
松田:世の中にあふれている禅に関する言説を見るにつけ思うのが、禅は頭よくないと無理やと思うねんな。
おいGoogle、てめえはバカか
中垣:笑
松田:アホに禅は無理やねん。
鈴木大拙だって帝国大学出てるんだよ
倉留:笑
なつき:笑
松田:いわゆる悟りを知ったところで、それを他人に説明するには圧倒的な言語能力が必要やねん。そもそも禅の大事なところって、主客分離というか、二元的な発想から離れることやねんな。
中垣:うん。
松田:例えば禅は「禅とは無限だ」って言ったりするわけ。でもそこで言う無限っていうのは、有限と背反に対置されるものではなくて、有限と無限の言語的対立を超えた先、あるいはその対立の生起する以前、AとĀが知性によって分かたれる以前に立ち返ることであって…みたいな話があるねんけど、そういうふうに禅って、そもそもからして非常に言語的なテーマなわけ。
中垣:うんうん。いや、そうやと思う。おれがすげえ思ったのはさ、それこそさっきの落合陽一のスポーツの話もそうやねんけど、禅が目指している到達点を達成する方法はいくらでもあると思うねん。別に座禅なんかせんでも、茶道でも書道でもスポーツでも、そこに到達することはできると思うのね。
弓道もいいよ
オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』岩波文庫→
松田:うん。
中垣:できるとは思うんだけど、禅の本当の目的って言うとおかしいけど、それでもどうして禅が存在するのかというと、おれの言葉で言うとあれは哲学やと思うのね。
松田:はいはい。
中垣:要は、禅はそれを記述することにすごく重きを置いていると思うねん。いや、記述するというか…つまりおれのむかついた坊さんは何がいけなかったかって、彼はある種の悟り的達成はしてたんだけど、別にそれだけでは禅僧じゃないねん。それなら禅である必要はないねん。
松田:そうそう、ほんとそう。個人的経験のそっから先が大事なんやんな。
中垣:そう。そういう意味では、やっぱ禅の必要条件に言語能力はあると思うねん。それを超えた先にその能力を使わないってことがあるとしても。
鈴木大拙とか井筒俊彦とか読んだら分かるけど、言語能力は超絶高いながら、言語化のさじ加減が絶妙過ぎるのよね
松田:せやんな…とりあえずのところ禅の要旨は、AとĀの分かたれる以前に立ち返ることやねん。人間の知性っていうのは何かを目の前にしてそれをAと名付けることを避け得ないねんけど、それによってありもしない矛盾に苦しめられることがあるから、そこでいったんAとĀの以前に立ち返りましょうって言うねんな。
中垣:うんうん。
松田:ほんで、スポーツ体験の中に禅があるっていうのはまさしくその通りで、身体を動かしているときの、私と世界との境界が曖昧になる感じというか、知的な認識とフィジカルな認識の差が曖昧になる感じ、あれってすごく悟り的やと思うねん。
中垣:うん。
松田:これを個人的に経験することが禅の第一歩やと思うねんな。で、ほんまに大事なんはこの先、悟りの先やねん。
中垣:うん。
松田:AとĀが分かたれる以前のゼロポイントに戻る、そこにこそ起点があるんだということをごく個人的に確信するわけなんだけど、もしそこで終わってしまっては、世界から隔絶されて、独善的な真理を抱いて死ぬだけやねん。
中垣:あー、そうやね。
松田:そうじゃなくて、確かに禅は知性以前に立ち返ることを要求するんだけど、それは別に知性の有用性を否定するものではないのね。むしろゼロポイントに立ち返った後、全く主体的に知性を行使し始めることこそが、まさしく我々が人間である所以であって、犬畜生とは違う点だと。
中垣:うん。
松田:で、鈴木大拙が本の中で言ってんのが、禅にとって大事なのはプラジュニャーとカルナーやと。前者は智慧のことで、これをもって個人は悟りを経験するに至る。で、そこで獲得した経験を周囲に伝えるっていう段階が次にあるわけで、それはcompassionたるカルナーによってなされて、それこそが大事なんだって言うねんな。
中垣:なんか、それを素人目線で解釈するとさ、自分に内に閉じちゃって「おれはこれでいいんだ」っていう態度だって取り得ると思うんだけど、それを超えて社会への働きかけが必要だってときに、その働きかけが必要な根拠ってあるの? その理由付けみたいなことはしてんの?
松田:いや、なんて言うんやろな…別に理由付けなんかなくたって、個人的に悟ったらそりゃあ次は周囲のことが気になってしゃあないでしょ、って感じやと思うで。
悟りはそれほどまでに強力で、何物も損なわずして全てを得る体験なんや
中垣:あー、そういうこと?
松田:明らかにナイスなものを手にしておいて、それを人に勧めない理由がない。そういう感じじゃないかな。
中垣:それがいいものなんだって思えないと、それは悟りじゃないってこと? 例えば…おれは以前は気になっていたあんな悩みやこんな悩みが気にならなくなったけど、それが特別にいいことだとは思わない、というか、わざわざ誰かに伝えようとまでは思わない、みたいなことって実際的にはあると思うねんけど…
悟ってもお腹は減るし、病気にはなるし、失恋したら悲しいし、もちろん普通に悩む
松田:あー、どうなんやろうね。でもやっぱり、禅はそれは否定するんじゃないかな。それってなんか消極的というか…
中垣:そういうことやんね。あくまで人間が人間であることは大前提にあるというか。
松田:そう思うよ。禅なるものを確信して、そこで消極的になってバイタリティを失うようでは全然あかんよ。それはただの虚無主義やんな。
知的存在であることを諦めて、感覚的インプットにしたがって虚無主義に生きることは絶対に違う
中垣:そうやんな。それはそう思う。
以上です。ここまで読み切ってこの本買わないやつなんている?
鈴木大拙『禅』ちくま文庫→
2020年4月10日
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