松田:あれを読んでんねん、
中垣:あー、ジョージ・オーウェルのね。
ジョージ・オーウェル(2009)『1984年 [新訳版]』ハヤカワepi文庫
松田:そうそう。なんかね、シンプルにおもしろいよ。ほんで、
アイン・ランド(2015)『肩をすくめるアトラス 第三部 AはAである』アトランティス→
中垣:はいはい。
松田:結構雰囲気が似ているというか、
と言うか、当時の社会情勢を鑑みるとそういう危機感を持つことは当たり前だったってだけじゃないかな。
中垣:あー。
松田:ジャストアイデアで
中垣:なるほど。警鐘を鳴らす的な感じなんや。いつ書かれた本なん?
松田:おれも知らん。調べようと思ったけど、ネタバレ踏みたくなくて調べられてない。
1949年
松田:まあその2つを比べると、『肩をすくめるアトラス』の方が個人的には好きやけどな。
中垣:なんかさ、
松田:いやね、
『1984年』の本質はそこで描かれている精神態度であり、それを実現させるための各種装置ではありません。
例えばGoogleによる個人情報の収集、これは『1984年』の内容とは全く対応しません。なぜならGoogleを使うことには明らかなメリットがあり、さらにGoogleを使わないことも可能だからです。
次にロンドンの監視カメラについて考えます。ロンドンには200万台の監視カメラが設置されており、市民は一日に300回カメラに撮影されているそうですが、これもやはり『1984年』には対応しません。ロンドンの監視カメラは法律の実効性を担保するために存在し、その法律は明文化されたものだからです。
『1984年』が真に対応しているものは、例えば中国によるチベットの弾圧があたります。明確な根拠もなく身柄を拘束されかねない状況では、少しでも疑われるようなことをしないというふうに、決して明文化されることのない、自身のものではない原理に基づいて行動することになります。これを社会全体が実践すると、誰もが自分以外の誰かの恣意を根拠に行動をとるようになり、いかなる知性、誠実さ、豊かさもその社会には期待できなくなりますが、まさにこれこそが今回紹介した2冊が糾弾するところです。
中垣:なるほどね。
松田:そうそう笑 あと、この2冊のおもしろいところやねんけど、そこで描かれている社会では「私はこう思う」「私はこう感じる」っていうのは歓迎されないわけよ。
中垣:はいはい。
松田:っていう世界線で、もちろんその価値観に反対する役目を担わされている登場人物がいて、そいつらの
中垣:そうなん?
松田:そういう世界線であるからこその対比が効いているというか、清々しく胸を張っている感じがあるというか。
性的な悦びを全面的に肯定していて、極めてradiantなわけ
夢で見たのと同じような素早さで彼女は服を脱ぎ捨てた。それを脇に放り投げる仕草も夢と同じで、文明全体を無化するような堂々たる気高さがあった。裸身が陽光に白く輝く。
(中略)
「いいかい、君が相手にした男の数が多ければ多いほど、君への愛が深まるんだ。分かるかい?」
Source: ジョージ・オーウェル(2009)『1984年 [新訳版]』ハヤカワepi文庫
「ええ、とってもよく」
「純潔なぞ大嫌いだ。善良さなどまっぴら御免だ。どんな美徳もどこにも存在してほしくない。一人残らず骨の髄まで腐っててほしいんだ」
「それじゃ、わたしはあなたにぴったりね。骨の髄まで腐ってるもの」
「こうしたことをするのが好きなのか? 僕を相手に、というだけじゃない。その行為自体が?」
「好きで好きでたまらないわ」
それは何にもまして彼の聞きたかったことばだった。一人の人間への愛情だけではなく動物的な本能、単純な相手構わぬ欲望、それこそが党を粉砕する力なのだ。
中垣:イスラーム世界における髪の毛のエロさみたいな…
松田:あー、まあまあ。確かにそうね。
中垣:今さ、みんなマスクしてるやん。女の子の顔が見えへんから最初は嫌やってんけど、逆にその環境に慣れちゃうと、
松田:でもさ、大体は目元だけの方が実物より可愛いやん。
中垣:そうやねん、そうやねん。どうする? マスク合コンとか流行ったら。
脱線が低俗過ぎる
2020年6月19日
Aux Bacchanales 紀尾井町
1984年の第18回スーパーボウルのテレビコマーシャルとして初放映された、アップルコンピュータのCM。『1984年』を元にしており、最後には
On January 24th, Apple Computer will introduce Macintosh. And you’ll see why 1984 won’t be like “1984”.
というナレーションが流れる。