松田:さっきみんなが来る前、シャルリー・エブド襲撃事件に関する記事を読んでてんやんか。その記事に関してこの観点はおもしろいんじゃねってみなとが言っててんけどさ、前にコーランは読むものではなく口に出すもんやって話をしたやん。
シャルリー・エブド襲撃事件 – Wikipedia→
西川:へー。
松田:イスラム圏での初等教育って、とにかくコーランをばり読ませるらしいねん。そうやってコーランを覚えるのがまず最初のステップやねんな。ほんでこの覚えるっていうのは、暗記するんじゃなくて暗唱できるようになることやねん。
松田:こうなってくるとちょっと面白いのがさ、我々の感覚としては、形而上のアイデアを言語的な記号に落とし込んだものが言葉なわけやん。でも彼らにとってコーランっていうのは、口を通して音声言語として初めて現れるわけやから、形而上のアイデアをフィジカルに書き留めたものというよりかは、すごくこう、言語全体がそもそもフィジカルなものなんじゃないかって。口にしてそれが聞こえてくるっていうふうに。
中垣:はいはい。
松田:っていうのをコンテクストとしたときに、キリスト教の規範意識っていうのはさ、神を信じましょう、なわけやん。逆に言うたら神を信じている以上は何をやってもいいってなるわけ。せやからキリストの御名のもとにバグったことしちゃうやつが定期的に現れるわけやん。
乱暴過ぎるぞちゃんと例挙げろ
松田:一方でイスラームの規範意識っていうのは、「善い行い」をしましょう、やねんな。例えば客人をもてなすとか富を分け与えるとか、そういうのが具体的にコーランに書かれてて、キリストの心情的なそれに対して行動的な規範が存在するわけ。
松田:つまり、キリスト教ではそれは「善い」ことだからそれをしましょうってなるわけよ。何かをするときに実際の行動と道徳っていうのが形而下と形而上に分断されてるねんけど、イスラームでは「善い行い」っていうのがセットになって、それそのものが「善い行い」っていうふうになってる感じ。だからなんか、 善い行いをするにあたって、形而上での価値判断っていうのが前行動的にある感じじゃないと思うねんな。
その二項対立は果たして妥当なのか
中垣:一応建て付けはそうなってるとしてさ、実際そうなん? 実際にそうなってるかは微妙じゃない? 実際に生活してる連中がそういうメンタリティかっていうとさ…
松田:結構そうやと思うけどな。
中垣:そうなんかな。
松田:だから客人めっちゃもてなすんじゃない?
中垣:あ、そういうこと?
松田: あいつら客人もてなすモチベばり高くて、迷惑なくらいもてなすっぽいねんな。それそのものが善いこととされてるからそうなるんじゃないかっていう。
松田:まあ知らんけどな。
さすがにザル過ぎるので、気になる方は各自検証してください
2019年9月27日
Starbucks 六本木 蔦屋書店