中垣:前に、
松田:あー、したね。
中垣:つまり、
松田:うんうん。
井筒俊彦(2019)『コスモスとアンチコスモス 東洋哲学のために』岩波文庫
中垣:で、
松田:そうそう、そうやねん。
中垣:で、そのようにして踏み固められた道はやがてアスファルトで舗装されるんだけどその代わり、
松田:はいはい。
ここでは、道は言葉に、道を通ることは言葉を使用することに、道が踏み固められ舗装されることは言葉がより広く使用され十分に一般化することに、それぞれ対応しています。
中垣:で、我々が「夢」とか「生産性」とか「自分」みたいな言葉に苦しめられるのも、その
c 禅的公共観
松田:うん、間違いないと思うよ。
中垣:そうやんなぁ。
随処作主、立処皆真
Source: 入矢義高訳註(1989)『臨済録』岩波文庫
本当に納得できるまで100回でも200回でも読んでくれるのであれば、僕が一番お勧めしたいのはこの本です
独尊者は「時」の流れに順はぬ、「時」の中に居ない。「時」は却つて彼の跡を逐ふのである。彼あるが故に「時」がある。彼の動くあとに「時」がのこるのである。彼には固より「時」をのこす意図も何もない、彼ほど現実の具体者はない。抽象せられた「時」なるものは彼を何ともすることが出来ぬ。彼の後へにくつついてまはつて居る。彼に追ひつかんといくらあせつても、彼はいつも「時」よりも一歩前進して居る。彼は「時」を使ふが、「時」は彼を使ひ得ぬ。昔趙州禅師は「諸人は十二時に使はれて居るが自分は十二時を使つて居る」と云つたが、その通りである。趙州は独尊者であつた。これが臨済の、「随処に主となる」である。別に何かのはからひがあつて、主人公となると云ふのではない。「自然法爾」底なのである。人間的に「主」とか「客」とか云ふが、独尊者の方からはそんなものはない。孤行独往である。それを人間――「時」――が跡から跡からと逐ひまはる。而してそれを「歴史」と云つて、それに一所懸命にくひ下つて居る。彼等は「時」の流れに溺れるものである。
Source: 鈴木大拙『時の流れ』
松田:ただだからこそ、落合陽一の言うデジタルネイチャーはそこを打開する希望ではあるよね。普通は一から道を作ろうと思ったら、草木を刈り取るところから始めて、そこを踏み固めてアスファルトで舗装して、あるいは勾配が急であれば大地を削ったり階段にしたりっていう
中垣:うんうん。
松田:でも、知的資源が無限に増大してそれらが相互に不可分に接続されている世界においては、刻一刻と地形が変わる世界においても、
デジタルネイチャーとは、生物が生み出した量子化という叡智を計算機的テクノロジーによって再構築することで、現存する自然を更新し、実装することだ。そして同時に、<近代的人間存在>を脱構築した上で、計算機と非計算機に不可分な環境を構成し、計数的な自然を構築することで、<近代>を乗り越え、言語と現象、アナログとデジタル、主観と客観、風景と景観の二項対立を円環的に超越するための思想だ。
Source: 落合陽一(2018)『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』PLANETS
落合陽一(2018)『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』PLANETS
中垣:で、道ができる最初の段階で大事なのは、世界は草原ではないってことやねん。世界が全く均質な草原なのであれば、別に好きな道を通ればいいし、そもそも道を通す意味も無いんだけれど、
松田:うん、やっぱり言葉は必要やと思うよ。つまりその…
言語を行使した瞬間そこに意味が凝固し、曖昧模糊とした混沌の中に世界が顕現します。そしてそれを知り実践することこそが、人間の人間たる所以なのです。
中垣:うんうん。
松田:だから将来、道を通すことがことさらなことではなくなって、バンバン新しい道が通せるようになっても…でもやっぱり、道を通さないことにはそこは通れないからね。
中垣:そう、
松田:というより
中垣:生きる意味を問うのと同じやもんね。
言葉の意味を問うには言葉を行使せねばならず、生きる意味を問うには生きなければならないのです。
2021年3月10日
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