松田:村上春樹が走るのと三島由紀夫が身体を鍛えているのは同じことって話を前回に太郎としてん。フィジカルなフィット感とインテレクチュアルなフィット感の程度にギャップがあると、世界を正しく認識できなくなってしまうって言って。
松田:つまり、例えば文筆を仕事にしているような人らって、言語の世界でインテレクチュアルに世界を認識することには長けているわけ。でもフィジカルな世界では、必ずしも思った通りにいかんこともあるわけやん。頭で考えていることがそのまま現実世界に反映されるわけではないし、自分が認識していた限りの原理では理解できないことも、実際には起こる。そうするとそのギャップから、自己効力感が損なわれるということになると思うねんな。
松田:村上春樹にしろ三島由紀夫にしろ、身体を積極的に動かしていたのはそういったフィット感のギャップを埋めるためだというのは間違いない。村上春樹に関しては自身について明確にそのようには言及していないけれど、彼が走ることについて書いたエッセイを読むとそのことは明らかのように思うし、三島由紀夫に関しては明確にそのように言ってるしな。
村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』文春文庫→
みなと:それね、太郎は高校生くらいのときからずっと言ってる。
松田:三島由紀の例やと、彼は幼い頃に祖母から英才教育を受けていて、古典とかを読まされまくってたらしいねんな。そのおかげで恋愛なんて経験したことないうちから、あらゆる恋愛を描写できるようになってしまったと。
『三島由紀夫スポーツ論集』岩波文庫→
ちさと:笑
松田:だから世界をインテレクチュアルには理解できているしそれを描写することもできるけど、その内容が自分のフィジカルな経験と一致していなくて、そこのギャップに苦しんでいたみたい。そこでボクシングとかの身体の鍛錬を通して、世界とのフィジカルな交渉に積極的に取り組むようになったと。
黒沼:でもそうすると、三島由紀夫のボクシングの方が内向的な気がしません? 一人の対戦相手がいてその特定の相手にフィジカルに接続しようとする感じと、外を走って多種多様な不特定多数の変数に接続しようとする感じを比べると。同じ動機なのは分かるけれど、それぞれの世界観は全然違っていて、取り組み方が内向的なのか外交的なのかの違いがあるように思います。
松田:うーん。自分が理解している範囲では、例えばサウナに入って「ととのった」って言っているとか、筋トレをするとすっきりするみたいな、そういうフィジカルな実感をもって世界を確信する根拠にしようという試みとしてマラソンもボクシングも同じものだという話だから、より詳細に外部との交渉がどのように行われているかというのは、また主題が違うように思うかな。
2019年8月23日
東京ミッドタウン