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ことば 思索

禅は素人向けとちゃう気してきた

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松田:最近ちょっと思っててんけど… commmon の禅カテゴリーの記事あるやん。

みなと:うんうん。

松田:この前ちょろちょろ見ててんけど、なんかどの記事もあんまよくなくてさ

みなと:ほう。

c 「禅」の記事一覧

松田:やっぱね、もうちょっときちんと、言語的に鮮明にしていかなければいけないと思ったのよ

みなと:…と言うのは?

既にできていない

松田:なんなんやろな。なんかこう「ゴニョゴニョ…なるものなんです」みたいな言い方してる気がしたというか、説明の過程の紆余曲折を経て、それをまるっとまとめて「的なね?」って言ってるところがあるというか…

みなと:ひっくるめて言っちゃってるみたいな?

松田:うん…やっぱもう少し輪郭をはっきりさせた方がいいんじゃないかと思ってん。おれは今まで禅だ禅だと言ってきたけれど、禅ってこう、悟りを主題とする同種のそれらの中では相当にロックなのよね

みなと:うんうん。

道流、你欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、 逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脫自在。

道流、你如法に見解せんと欲得すれば、但だ人惑を受くること莫れ。裏に向い外に向って、逢著すれば便ち殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なり。

諸君、まとめもな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢っ たら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものに束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。

Source: 入矢義高訳註(1989)『臨済録』岩波文庫

入矢義高訳註(1989)『臨済録』岩波文庫

松田:それこそ『臨済録』もそうやけど、すごく強力で、レーザービームのように真相を指し示すようなところがある。禅は、一切の抽象に頼らずに具体中の具体に直接触れる方法を知っているわけね。だから、日常的な感覚からすると全くメイクセンスしない問答やらが存在したりして、そうやって言葉を超えたところで真相を掴もうとすると。

みなと:うんうん。

松田:…まあ言葉を超えたところに真相があるというのは、こと禅に限らず、もう少し広く共有されているコンセンサスだとは思うけど。でも禅においては特に、言葉を逆転させ、その無意味性を暴くかのような使い方さえしたりするわけ。

みなと:うんうん。

松田:なんだけどね、なんだけど…そういうのって外形的には容易に模倣できるわけよ。だからこそ世間では、全く意味の通らない言葉をもって「まるで禅問答のような」などと言ってのけるわけやん。

みなと:はいはい。

松田:もちろんそれは間違ってるねんで。禅問答っていうのは日常的な感覚からすると全く意味不明なんだけれど、しかし一度真相に触れたことがあれば、それはいかにも的を得ていることが分かるのよ。

みなと:うん。

松田一見するととんちんかんなんだけど、しかしその表現には十分な排他性がある。まさにそれだからこそ直指できる真相がある、そういうものなのね。

みなと:なるほどね。

庭前柏樹子とかほんともう震えるもんね。ちなみにググってもまともな解説ページは出てきませんので、下の本に収録されている『禅における言語的意味の問題』を読んでください。

井筒俊彦(1991)『意識と本質』岩波文庫
Image: Amazon.co.jp

井筒俊彦(1991)『意識と本質』岩波文庫

松田:…なんだけど、外形的にはさっき言ったような次第だから、やっぱなんとなくであれば真似できちゃうのよ。つまりそれっぽい振る舞いをしたり、それによって自分を騙すことまでできちゃうねん

みなと:「あー…うんなるほど。たぶんそうだと思う」みたいな。

松田:そう。そういう認識を促しかねない部分はそもそもとしてやはりあるなと。にも関わらずこれまで、そこを補うどころか、雑に強調するようなことをしてたんじゃないかってね。

みなと:なるほど。

松田:もちろん…まあここで悟りって言っちゃうと仏教っぽくなっちゃうねんけど、実在に対する問い、私と世界の関係性をめぐる究極の問いについて、その先に見るものは、何がそれだと簡潔に言い表すことはできないんだけど、しかし一度それを見た以上、それはそれ以外ではあり得ない、そういうようなものやと思うねんな。

みなと:うんうん。

松田:見たら明らかに分かるように、それはそれで、それ以外ではあり得ないと。だから、それをなんとなくメイクセンスするなんてあり得ないわけ。少しでも疑念があれば、それは答えではないねん。

みなと:うん。

松田:そういう事情なのだから、ポップでキャッチーな表現でもって漠然と示唆してばかりいると、「なんとなくこれかも」という認識を持たせるばかりでよくない。そういうことを思っててん。

みなと:うんうん。

松田:反省するところはあるね。commmon の中で禅に言及してる記事は、そういう点からはほとんどがごみやね。

みなと:笑

松田:ただ唯一、去年の大晦日に白濱さんと銀座で喋ったやつ、あれはなかなか悪くはないと思うけど。まあなんしか、今後はもうちょっと言語的に鮮明にしていこうと思った次第。

みなと:なるほどね。

松田:いやー、なんでしょうね。まあ「禅の師」に言わせると、悟りっていうのは気付きであって獲得とかじゃないんですよね。ロジックの先で納得することじゃないんです、just “Uh-huh” なんですよ。

白濱:はー…それは身体知されている感じなの?

松田:そうですそうです。「だってそうじゃん?」って感じですよ。

白濱:なるほど笑 でもその「だってそうじゃん?」はどうやって…というか、頭を使ってそう思ったわけじゃないの? それとも暮らしていてそう気付いたとかなの?

松田:うーん…まあこれも「禅の師」が言うにはですけど、そこはあくまで非連続なんです。確かにそこに向かおうとして頭は使っていますから、悟りと知的努力との間に時間的前後関係はあるんですけど、でもそれは因果関係ではないんです。

白濱:へー。

松田:もちろん、時間的な前後関係が必ず再現されるんであればそれを因果関係と言うんじゃないか、というのが常人の考えるところではありますが、あくまでそうではないんです。その上で禅は「虚無主義はあかんぞ」「しっかり頑張れな」みたいなことは言うんですよ。

Source: commmon

c 禅的公共観

2021年11月21日
Aux Bacchanales 紀尾井町

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