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【シンエヴァ】ラストシーンが我々に促すもの

ラフ画からの現実世界のシーンのまま終わってしまったラストは、14年間に及んだ新劇場版の終わり方としては、あまりに唐突で半ば放り出したような印象もありました。その意義について、監督の文章を引用しながら考えました。

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ラフ画からの現実世界のシーンのまま終わってしまったラストは、14年間に及んだ新劇場版の終わり方としてはあまりに唐突で、半ば放り出したような印象もありました。一見分かりづらいその意義について、監督の文章を引用しながら考えました。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を鑑賞して考察したことについて、実際の会話を文字起こししたものを、ささやかな解説としてお届けします。

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太郎:最後の駅、なんで宇部新川なんだろうとか思ってたんだけど…

松田:それはあれちゃう、監督に縁のあるなんかちゃうの?

太郎:あ、普通にそういう感じなのか。なるほどね。

シン・エヴァンゲリオン劇場版
Image: Amazon.co.jp

シン・エヴァンゲリオン劇場版 – Prime Video


現実に対処して他人の中で生きていくための作品として

松田:だからさ、結局は監督のオナニーなんだろみたいな、しょうもないディスが出てくるんやんね。気の毒に。

太郎:笑

松田:でもさ、あのシーンを実在の駅にしなければいけなかった必然性は理解できるし、となれば自分の地元くらいの、別にどこでもいいんだけどそれ以外ではあり得ないような、そういうところにするしかなかったわけやん。

太郎:まあそうだよね。

みなと:監督のことをよほど知ってるとかならともかく、普通は映画を観ながらそのことが分かることもないしね。

松田:監督の地元やからオナニーやって言うんなら、ほな代案出せって話よ。渋谷駅やったらよかったんですかって話でしょ。

太郎:笑

『天気の子』みたいになったらね、嫌ですもんね

みなと:周りの人に肩ぶつかっちゃいそうだもんね笑 まあそれはさておき、ちょっとラストについてなんだけど…

松田ラストはずばり、みなとの持ってきてくれたこれに書いてあるのが全てやんね。これってソースは何なん?

嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの避難場所にしていないとこなんですよ。今のマンガは、読者を現実から逃避させて、そこで満足させちゃう装置でしかないものが大半なんです。マニアな人ほど、そっちに入り込みすぎて一体化してしまい、それ以外のものを認めなくなってしまう。嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いて来るマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。 嫁さん本人がそういう生き方をしてるから描けるんでしょうね。『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃でした。

Source: 安野モヨコ(2005)『監督不行届』祥伝社

安野モヨコ(2005)『監督不行届』祥伝社

みなと:これは庵野監督の奥さんが、庵野監督との夫婦生活をコミカルに描いている漫画かな。『監督不行届』ってやつで。

太郎:あー、はいはい。

みなと:その一番最後の部分で、庵野監督自らがこれを語ってるんだよね。そもそもこの本が書かれたのが新劇場版が始まる前だから、ここで言ってる最後までできなかったっていうのは、アニメシリーズとか旧劇場版の話だとは思うんだけど。

松田:はいはい。

太郎:いやー、なるほどね。

みなと:これを読んでも思ったのは、庵野監督は作品世界を綺麗に描くことに興味があるだけじゃなくて、それを観る人に対してすごく愛があるというか…

松田:うんうん。

みなと:作品を観た人に、その後で現実世界を生きていく強さを獲得してほしいってことを明確に言ってるわけじゃん。まあもちろんそれだけが目的だということはなくて、作品は作品として彼の作りたいものがあるんだろうけど、それとは別に観ている人への愛があって、それがまさにあのラストなんだろうなと思ったな

太郎:はいはい。


エヴァンゲリオンは捨てられなければならない

みなと:そもそもエヴァンゲリオンではさ、作品の中でエヴァの機体を捨てちゃってるじゃん。そこで思うのは、あの機体って人類を救ってくれるようであり、でも実はそうでもなくて…

松田:うんうん、分かるよ。

みなと:なんだかよく分からない人知を超えた存在がエヴァで、人々はそれに何かを仮託しているというか、自分達を救済してくれるものなんじゃないかっていう思いを勝手に寄せているように思うんだよね

太郎:はいはい。

みなと:それで最後の方で、神の力を借りずに人間が槍を作ったとかいうシーンが出てくるけど、ここで描かれているのは何かに仮託して期待する人類ではなくて、自分達の意志と行動で生きていく人類というか…

「神が与えた希望の槍カシウスと絶望の槍ロンギヌス それを失っても世界をありのままに戻したいという意志の力で作り上げた槍ガイウス いえ ヴィレの槍 知恵と意志を持つ人類は 神の手助けなしにここまできてるよ」って、マリが言っていました。

松田:やっぱ今ここが起点になる感じが大事というかさ…それまではちょっと遠い部分があったというか、そんな気がするのよね。

みなと:うんうん。

太郎:その意志の槍を届ける役目を葛城が引き受けたわけだけど、あれは世界の全体性を引き受けようとするシンジへの礼讃であり、葛城が飛び込む行為それ自体も100%の主体性の行使だったなというか…

みなと:はいはい。

太郎:あのシーンでは、巨大化したユイの両手を突き破って槍を届けているじゃない。ゲンドウに生成されたあのユイは、自己の了解可能な範囲、膜の内に閉じようとする試みの象徴だったわけだけども、世界を引き受けようとする主体性、積極性がそれに打ち勝ったなと思ったな。あれを観て、三島の特攻隊論を思い出したわ。

松田:笑

太郎:まあビジュアルが相似的だったからっていう単純な発想なんだけどね笑 でも、この行為によって世界がどうなってしまうかは分からないけど、結果を信じ責任を引き受けて行動に移すってのが、自らを最後の行動者と思い定めた者が、自分の後にも続くだろうと信じて突っ込んだ特攻隊っぽいなと。この解釈自体、三島が言ってるだけだし、色んな人の逆鱗に触れそうですが…

三島由紀夫(2006)『文化防衛論』ちくま文庫
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「よりよき未来社会」を暗示するあらゆる思想とわれわれは尖鋭に対立する。なぜなら未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがえのない現在をして、すべて革命への過程に化せしめるからである。自分自らを歴史の化身とし、歴史の精華をここに具現し、伝統の美的形式を体現し、自らを最後の者とした行動原理こそ、神風特攻隊の行動原理であり、特攻隊員は「あとにつづく者あるを信ず」という遺書をのこした。「あとにつづく者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき未来社会」の思想に真に論理的に対立するものである。なぜなら、「あとにつづく者」とは、これも亦、自らを最後の者と思い定めた行動者に他ならぬからである。有効性は問題ではない。

Source: 三島由紀夫(1969)『反革命宣言』

三島由紀夫(2006)『文化防衛論』ちくま文庫

松田:劇中ではさ、空想のなんちゃらって表現がよく出てきたと思うねんけど…意志の槍を手にするまでは、今ここから繋がっていない、自分ごとのようでそうでない、どこまでも無責任でいられるような絶妙に手の届かないところにあるものについて、そのことを知らないふりをしながら話が進んでた気もするねんな。

みなと:そうそう。そういう、都合よく描かれた何かでしかないものをエヴァンゲリオンは背負わされていたし、それを最後には捨てたっていうのが大事だと思うんだよね。

松田:し、それは何より、映画とそれを観る我々との関係においてもそうやと思うねん。

道流、你欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、 逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脫自在。

道流、你如法に見解せんと欲得すれば、但だ人惑を受くること莫れ。裏に向い外に向って、逢著すれば便ち殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なり。

諸君、まとめもな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢っ たら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものに束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。

Source: 入矢義高訳註(1989)『臨済録』岩波文庫

入矢義高訳註(1989)『臨済録』岩波文庫

みなと:エヴァンゲリオンっていう作品を見ている僕達も…もちろん作品を観ている限りにおいては入れ込んだらいいんだけど、それをこう、自分の何かの代わりにしてはいけないと。エヴァンゲリオンが終わった後に残るのは作品を観た人自身の現実なんだから

太郎:うんうん。

みなと:そうやって、もう終わりつつあるんだ、ここから先は描かれた作品ではない、自分達の生きる現実なんだっていうのが明示されているのがあのラフ画のシーンだと思うし。

太郎:あー、なるほどね。さっきの後書きは本当にそういうことだよね。


ラストシーンは鑑賞者へのバトンパスである

みなと:あのラストシーンからはそのことが明確に伝わってくるし、だから僕は何回観ても、最後にすごくポジティブな気持ちになれるな。シンジくんが主体的に現実を生きていくのを観て「あ、やっぱそうっすよね…」っていうのを実感するというか。

松田:はいはい。

みなと:つまりさっき話した通り、エヴァンゲリオンシリーズを通じて監督が描こうとしたリアリティへ立ち向かう力強さっていうのは、作品の中でシンジくんにだけやらせればいいわけではなくて、現実にまさに生きる鑑賞者にこそ向けられていると思うのね

太郎:うんうん。

みなと:だからこそ最後のシーンは、アニメ作品のエヴァを現実世界に降ろしてきて終わらせているわけで…これは現実の中で生きろっていうバトンを渡されてると僕は思ったな。

松田:しかしそうなると…シンエヴァの鑑賞は何回目までならセーフなんかな?

太郎:笑

松田:例えば週一で一年間ずっと観るとか、なんかあかん気するやん。今日で3回目のおれはもう黄色信号ともってる気するで。

みなと:それで言うと僕はもう6回観てるからね。

太郎:笑

みなと:あとは…これは今の話からはちょっと脱線になっちゃうんだけど、前に話してた内容で、キャンバスの一筆目としての意志の槍とか、目に楽しい前半と後半の差は何なのかみたいなトピックが上がってたじゃん。

松田:うんうん。

みなと:ここも結構気持ちが入っているところではあるから、せっかくこの記事を見てくれたのなら、ぜひあわせて読んでほしいなっていう。

松田:そうそう。で、最初からあった希望の槍と絶望の槍が失われたときに出てきたのが意志の槍なわけやん。あれはもう…そういうことやんな。

みなと:うんうん。

松田:自分以前にあるAとĀの対立が滅却されて全くの白紙になったところに、そこで初めて、全く主体的に行使される、積極性100%の、主語が自分でしかあり得ない何かとしてあの槍が出てくるっていう…

みなと:うんうん。

松田:そういうふうにして、自分達で作ったその槍が…まあどういうことかは知らんがシンジくんの手元に降りてくるわけやん。あれもすごいしっくりきたな。

みなと:そうだよね。

松田:あそこには主体性と積極性が詰まっているよ。

Source: commmon

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2021年11月6日
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シン・エヴァンゲリオン劇場版
HeaderImage: エヴァンゲリオン公式サイト

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の過酷な制作の後、庵野は鬱病になる。丸一年の間、自分の創業した会社にも行けず、仕事もほとんどできないような状態だった。そこから徐々に回復し、『シン・ゴジラ』の制作を挟み、8年を経て本作を完成させる。自ら作り出し、ファンも多いエヴァの作品世界を、解釈の余地なく終焉させた庵野監督の意志に乾杯🥂

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