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シン・エヴァンゲリオンの本質を、8つの観点から徹底的に解説します

3 years

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松田:いやぁ…まあなんやろ、非常に満足したというか、やっぱすげえしっくりくるね

みなと:うん。

松田:1回目に観たときは着地点が分かっていないのもあって、全編通してどれくらいの解像度で観るべきかが分かっていなくて、瑣末な描写が気になったり重要な設定を見過ごしていたりしてたけど…

みなと:うんうん。

松田:でも2回目はね、どの解像度で観ればいいかが分かっているから、ほんまに最初から最後までしっくりくるという感じがあったね。

みなと:一方で僕は、そうやって切り捨てていた中に実は意味のあるものが含まれていたら嫌だなと思って、めちゃめちゃノイズを拾いながら見てたな。

松田:なるほどね。

第3村の綾波レイは、当為によって硬直した存在を象徴している

みなと:けどね…後半になると、もう否定しようがなく悟り案件だと分かるというか

松田:うん。おれは「あー…令和日本の『臨済録』ですねこれは」って思いながら観てたよ。

みなと:めっちゃパワーワードなのに伝わる人の範囲が狭そうっていう笑

入矢義高訳註(1989)『臨済録』岩波文庫
Image: 岩波書店

入矢義高訳註(1989)『臨済録』岩波文庫

松田:それで具体的な話をすると…まず、第三村の綾波レイの感じはすごくいいなと思ったな。

みなと:うんうん、そうだよね。

松田:なんやろう…彼女がずっと同じ服を着てる感じとか、最後に破綻しちゃう感じとかね

漂白された理想の脆弱さがよく分かりますね

みなと:僕も第3村のシーンは好き。いろんなキャラクターがいる中で、一番は綾波レイのためにあると言っても過言ではないシーンだよね。やっぱかなり象徴的ではあるじゃん、「私はNERVでしか生きられない」とか「これが…恥ずかしい?」ってわざわざ言ってる感じとか。

松田:うんうん。あのシーンにおいては、彼女だけが明らかに異質である意味では滑稽でさえあるんだけれど、でもそれが指摘していることは、案外こう…心当たりのあるというかさ。

みなと:うんうん。

c 強迫ピープルの生態

松田:ずっと同じ服を着ているのもそうだし、あとは「自分で名前をつけてもいいの?」みたいなことを言っていたし…

我々は、我々以前に既に何者かであるはずはなく、自分で選んだものではない名前を与件として負っているように思うのであれば、それは全て間違いです。そのような幻想は勇気をもって拒否し、意志と行動を通して帰納的に名前を獲得していかなければいけません。

中垣:で、そのようにして踏み固められた道はやがてアスファルトで舗装されるんだけどその代わり、地形が変わって別のルートが通りやすくなっても、目的地が変わってその道が遠回りになっても、誰でも通れるように舗装されているその道を通るしかないみたいなことが起こるよねって。

松田:はいはい。

中垣:で、我々が「夢」とか「生産性」とか「自分」みたいな言葉に苦しめられるのも、そのアスファルトで舗装された道を通らざるを得ないからだよねっていう。

松田:うん、間違いないと思うよ。既に舗装された道を通るにしても、あくまでそれが排他的に妥当な場合にのみそうするべきなんだけれども、誰もがそれをできるわけでは決してないからね。

Source: commmon

c 言葉の意味

みなと「こういうとき、綾波レイならどうするの?」とも言ってたね。

松田:そうそう。当為からバックキャスティングに現在を判断することの象徴して彼女は描かれていたというか。

みなと:うんうん。

松田:でも当為ってどこまでいってもさ、何かが捨象された言葉だけの世界なわけで…つまり妊娠している猫のリアリティはそこにはないわけよね。

みなと:うん、ほんとそうだよな。

松田:それであの村では、彼女以外の全員が、当為からというよりは…

みなと:今日の今ここ、というかね。

松田:そうそう笑 彼女以外の全員は、今日の今ここから何かを始めているわけやんか。そういう、当為と存在に矛盾のない感じというのは…本当にその通りというか。

みなと:うん。

松田:そういう状況で、彼女だけが毎日同じ異質な服を着続けているっていうのは、話がとても分かりやすいなと思って。

みなと:だし、彼女があの村で獲得していく何か…それに対して、彼女は彼女なりの充実というか手応えを感じていて。

松田:まあわりと早い段階でシンジくんにバトンパスしちゃってたと思うけどね。「あ、破裂した…」とか思ったもん。

みなと:笑

ヴンダーに戻りエヴァに乗ったシンジが引き受けたもの

松田:ほんで綾波レイちゃんが破裂しちゃってから、比較的すぐにシンジくんの目の焦点がキッと定まる感じ、あれもすごくいいなと思った。その出来事に動揺することなしに腹が据わる感じ、あれはああいう状況における一つの真相を描いていると思う。

みなと:うん、そうだよね。

松田:「やっぱおれヴンダー戻りますわ」って…だって綾波レイがああいう形でいなくなっちゃってのそれやからね? 「強くなったよ君は…」って感じよ。

ここで言う強さは、弱さと対立するような、勝つことによって認められる二元的な強さではありません。そうではなく、敗者を必要とせず、全くの一人だけでも獲得できる、全体性を引き受ける覚悟のことを言っています。

みなと:たぶん…良いプレイなんてできないんだよ。練習でやってきたことも全然できないかもしれないんだけど、でも絶対にこのポイントは大事だし、取らなきゃいけないと。

松田:うんうん。

みなと:そういう中でやることに意味があるというかね。まあそう言っちゃうと、なんか綺麗に聞こえるんだけどさ。

松田:でも全体性を引き受けているって感じはあるね。清濁一気飲みというか。

Source: commmon

c 勝っても負けてもいいからやるのが大事

みなと:そうだよね。ほんとそうだよ…強いよね。これは映画の最後の方にシンジくん自身も言ってるけどさ、「辛くても大丈夫」というか、あのシーンをもってシンジくんは人生を引き受ける勇気というか、自分の足で歩いていく強さみたいなものを獲得していて、残りの物語は結構さ…

松田:そうやんね。シンジくんについてだけ言えば、もうあの時点で話は終わってるわけ。でも、それこそエヴァに乗るって言ったシンジくんに銃を向けた女の子とかがまだまだ全然分かってへんから、そういうみんなを分からせていくフェーズとしてその先があって

みなと:でもあり、逆に今度は…

松田:そこで自分の確信したことを実践していくことこそが重要だという見方ももちろんあるし、実際的にはそうやと思う。

みなとそこからが逆に本番だと言えるよね

松田:うんうん、確かに。

「私の膜」を、世界の外縁部にまで広げていきましょうね

c 二種類の認知の膜

鈴木大拙(1987)『禅』ちくま文庫
Image: Amazon.co.jp

鈴木大拙(1987)『禅』ちくま文庫

みなと:それはちょっと思ってたんだよね。前にアニメ版についてちょっと話したけど、アニメ版って、結局は自分だけで終わってるんだよ

松田:あー、はいはい。

新世紀エヴァンゲリオン
Image: Amazon.co.jp

新世紀エヴァンゲリオン – Prime Video

みなと:シンジくんが自分で自分のことを選べるようになったところで終わってて、でもそれだけだとやっぱり、まあ不完全とは言わないけど…

松田:それだけで終わるものじゃないからね。

みなと:そうそう。だから今回の作品でシンジくんが偉いなと思うのは、そこから先世界と向き合って、自分からはたらきかけているところというか

松田:うんうん。

みなと:自分としては納得したそれを、周りの人に向けていくというか、周囲の課題にひとつずつ向き合っていってるというか…そこが一番のポイントだと思うかな。

松田:うん、そうやんな。

カルナーなきプラジュニャーに意味はないっすね

みなと:そういう意味においても、あれはやっぱりシンジくんの物語だという感じがするね。

松田:そう考えると、先週の土曜日にみなとが言ってた「勇気」って言葉、あれが改めてしっくりくるな

みなと:うんうん。

松田あちらとこちら、表と裏をひっくるめて引き受ける勇気というかね… 特にそういう話として理解しながら、今日は観てたわ。

みなと:それでシン・エヴァの話を松田としたときに言ってた、シンジくんがクルーに撃たれそうになっても乗るって言って聞かないあのシーンとか、あれはまさしく勇気の問題だなって。

松田:うんうん、それは間違いないね。

みなと:確信していることをやる勇気というか…誰になんと言われようと、それも引き受けた上でやる勇気というか、もちろんその結果何が起こるかは分からないんだけど、それでもやるという覚悟というか。あるいは中垣のよく言う言葉だと「確信」とか「信念」とかにも近いのかもしれないけど。

松田:うんうん。

みなと:それを表すのに、個人的には勇気っていう言葉がしっくりくるんだよね。

Source: commmon

c 「Aを選ぶ人生じゃなくてXを見出す人生を選べよ」

みなと:そう…やっぱりシンジくんは、かなり勇気を持ってたよね。それはもうかなり序盤で明らかなんだけど。

松田:やっぱそこは大事なところやと思うな。だって仮に私に限って言えば、何かを納得するのはそう難しいことではないというか…まあ時間がかかることでは必ずしもないわけ。でもそれだけじゃないんだよってね。

あたかも禅問答のような、ゲンドウとシンジの戦闘シーン

ちなみにですが、一般に禅問答に例えられるような、単に意味の通らない無茶苦茶なことを言うことは、本来の禅問答とは全く関係がありません。ここではもちろん、まさにその分節機能によって問う者を絶対無分節の世界へと突き返す、そういった言語使用としての禅問答に例えています。

松田:あとはあれ…なんかフェイクっぽい戦闘シーンがあったやん。今回はあそこが特に『臨済録』を感じさせてんな。

みなと:うんうん。

松田:なんていうのかな、全てを徹底的に否定して退けていく感じというか…つまり、そういう場所だと思っていたら壁まで飛ばされてセットが壊れる感じ。それもこれも全部違うんだと、決してそういう話ではないと

みなと:うんうん。

松田:それでゲンドウは、「フィジカルな力によって解決すべき問題ではない」って言うわけやんか。ああやって、あらゆる二元的な前提や手段が剥ぎ取られていく様、あれには『臨済録』との相似を非常に感じたね

みなと:そうだね…うん。ゲンドウも「回り道をしよう」って言ってからひたすら投げ飛ばしあってるわけで、それが解決の手段ではないということを伝えるためだけに、わざわざあれをやってるわけじゃん

松田:そうやねん…でもそうなんだけど、その辺が分かってない限りは、徹底的にあれをやるしかないねん。

みなと:そうそう、そうなんだよ。

われわれがけっして見落としてはならない一事がある——すなわち、貧の平和(けだし、平和はただ貧においてのみ可能である)は、あなた方の全人格の力をつくしてのはげしい戦いをたたかい抜いてのちに、はじめて得られるものである。怠惰や、放任安逸な心の態度から拾い集めた満足は、もっとも嫌悪すべきものである。そこには禅はない。ただ懶惰と、無為の生があるのみである。戦いは、はげしく雄々しく戦われなければならない。これなくしては、そんな平和が得られたにしても、それはみな偽物である。そこには深い基盤がないから、ひとたび嵐にあえば、たちまち押しつぶされてしまう。禅はまったくこの点を強調する。

Source: 鈴木大拙(1987)『禅』ちくま文庫

鈴木大拙(1987)『禅』ちくま文庫

松田:その線で徹底的にやりきって、どうしてもこれではないということを自分でちゃんと分からなあかん。二元的な問題をそのまま二元的に扱っている限りは絶対に解けないということを、自身の経験として知らなあかんねん

みなと:うんうん。

松田:それこそ鈴木大拙なんかは「アホに禅は無理」っていう趣旨のことを言ってるねんけど、それもまさにそういうことやと思う。

みなと:はいはい。

鈴木大拙(2021)『禅の思想』岩波文庫
Image: Amazon.co.jp

ソース

c 鈴木大拙(2021)『禅の思想』岩波文庫

松田:確かに…確かにその手段によって直接たどり着けるものではないんだけれども、でもその手段さえ放棄して虚無主義に陥るのはもちろん違って、分からないなら分からないなりに、それがどれだけ回り道のように思えても、手元にある手段を徹底的に行使していくしかないんだってね。

松田:うーん…まあこれも「禅の師」が言うにはですけど、そこはあくまで非連続なんです。確かにそこに向かおうとして頭は使っていますから、悟りと知的努力との間に時間的前後関係はあるんですけど、でもそれは因果関係ではないんです。

白濱:へー。

松田:もちろん、時間的な前後関係が必ず再現されるんであればそれを因果関係と言うんじゃないか、というのが常人の考えるところではありますが、あくまでそうではないんです。その上で禅は「虚無主義はあかんぞ」「しっかり頑張れな」みたいなことは言うんですよ。

白濱:笑

松田:それが禅のロジックですね。

Source: commmon

c 禅的公共観

みなと:うん、たぶんシンジくんはあれをするしかなかったわけじゃん。最初から話し合うのは絶対にできなくて、じゃあ彼にとってはこれしかないという手段を徹底的にすることで、初めてその先で対話にいたるっていう…それはそうだよね。

ヘッドフォンやATフィールドが隔てていたもの

松田:あとは…ヘッドフォンとかピアノとかATフィールドとかについてでさ、おれ1回目に見たときは「相補性」っていう言葉が出てきていることをあまり意識していなかったんだけど、その相補性を前提に考えると、ヘッドフォンもピアノもATフィールドも、あちらとこちらを対立させる…つまりそれをまたいでの融通を不可能なものにさせるものだと思っていて

みなと:うんうん。

鎌田茂雄(1988)『華厳の思想』講談社学術文庫
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鎌田茂雄(1988)『華厳の思想』講談社学術文庫

松田:でもそれは違うんだと。あちらとこちらには相補性があって、互いに融通し合うものがあるんだと。そういう理想に対してのアンチテーゼを象徴するものだったんだなと思った

みなと:うん。なんか今日は本当に…あちらとこちらに分かれているのではなく、相補性のある世界なんだなということを考えながら観てたな。

松田:だからつまり…ゲンドウには勇気が足りなかったよね。私と彼が致命的に対立する世界から始まって、でもそこにユイが出てきて、世界は必ずしもそういうものではないということを知ったっぽかったやん。

みなと:うんうん。

松田:でもユイが…まあ死んだのかなんなのかは知らんけど、そこで闇堕ちしたのがあかんかったね。ほんまにあと一歩やったのにね。

みなと:そうだね。

松田:そこで全体性を引き受ける勇気が彼にあれば、あんなたいそうなことにはならへんかったのにって感じやね

それ言い出したら作品が成り立たないんですよ

みなと:そうね、ゲンドウはまさに勇気が足りなかったよね。彼の住んでいたのはずっと二元的な世界だったんだけど、でもユイと出会うことで…まあそれだけで相補性のある世界というと、ちょっと言い過ぎな気もするけど。

松田:うん。でもかすかに見えてきてたはずやってん。

みなと:そう。それを知りかけたところで、でもユイを失ってしまって、そこで彼は世界との接続において失敗してしまったんだよね。そこで彼は絶望してしまったし…まさに向き合う勇気がなかったんだよ。

松田:うんうん。

みなと:だからユイをもう一回作るという発想になってしまったわけだけど…でもそれは、欠けてしまった部分をそのままもう一度埋めるという感じで、相補というのとはまた違うなと思ったな。

松田あくまで境界線がはっきりしたままピース同士が噛み合っているって感じやんね。境界線を超えての融通というものはそこには無いというか…

みなと:そうだね、そうそう。それで終盤の電車の場面で、シンジを抱きしめて「そこにいたのかユイ」って言ってたけど…

松田:そう、そうやねん。だから語弊を恐れずに言うとユイは…別にユイじゃなくてもあり得たわけやねん

みなと:そうそう。

井筒俊彦(1991)『意識と本質』岩波文庫
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一塵に全世界の顕現を見ることができるようになりましょう

井筒俊彦(1991)『意識と本質』岩波文庫

松田:彼はユイと向き合ってたとき、ユイを通して…世界全体に接続できていたわけ。そこに全世界の顕現を見ていたわけ。

みなと:そう…そうだね。

松田:でも、当時の彼はそのことが分かっていなかったと。そういう感じがすごくあるな。

みなと:だから逆に言うと、もう一度素直にというか誠実にというか、シンジくんと向き合おうとして抱き締めたその行為をもって…まあ世界というか、ユイを発見したのかなって

スピここに極まれり

松田:うんうん。あれは具体が抽象になのかあるいは全く別の具体になのか、はたまた部分が全体になのか…まあなんと言ってもいいのだけれど、そういうふうに転じた瞬間であったと思うな。

みなと:うんうん。

松田具体中の具体に徹底的にコミットすることで、それが転じて…っていう感じがあったと、個人的には思う

 何が具体か何が抽象かと云ふことは、その人の考へ方、見方によりて相違すると思ふ。例へば、此処に一つの茶碗があると云ふ、又向うに雀が四羽電線の上に集まつて居ると云ふ。これほど具体的なはなしはないと考へられる。すべて感覚上の経験は具体的で、それが一旦思惟に上せられると抽象的になると云はれる。ところが、これが果してさうかと云ふに、此感覚上と云ふのが甚だ具体でないのである。独尊者その人の動きからと云ふと、「此処」とか「其処」とか云つて、空間に区切りをつけたり、雀とか茶碗とか云つて「個」的限定をやることは、頗る抽象的なことなのである。こんな限定は独尊者の与かり知らぬところである。即ち独尊者と云ふものから引き離して考へたところから、「此処」があり、雀が出るのである。雀と云ふ「個」は思惟を経た抽象体である。「此処」と云ふも同じ道理である。独尊者の本体は此処にも居なければ、雀でもないのである。それ故、彼は此処にも在り、彼処にも在り、雀でもあり、電線でもあり、ペンでもあり、何でもかでもあり得るのである。
 世間では独尊者は抽象的思惟の結果であると云ふ。併し、今一つの観点からすると、即ち雀と云ふも既に抽象的であると云ふ方面から見ると、独尊者と云ふものほど具体的なものはないのである。それで宗教者ほど具体的世界に棲んで居るものはないと云へる。親鸞聖人など世間は虚仮で、何もかもそらごとであると云はれるが、実にその通りである。「虚仮」とか「そらごと」とか云ふのは、抽象的だと云ふ言葉に外ならぬ。又世間では哲学者を抽象的概念の請負業者と見て居るものもあるやうだが、なるほど或る哲学者はさうだとも云へるであらうが、中には全くさうでないのもある。此見分けをするには、やはり独尊者を体認したものでなければならぬのである。而して具体的なものほど普遍性をもつて居るのである。抽象性を帯びたものは、どこかに主観性を隠して居る。而して此主観性の故に一般的には受けとれないのである。自分の考では、普通の人の見方を逆にせぬと、真実の世界――それが即ち最も具体的なるものであるが――、それへは入ることが出来ぬと云ふのである。これが出来ぬと、「思想善導」など云ふことはとても口にすべきでない。

Source: 鈴木大拙『時の流れ』

鈴木大拙 『時の流れ』

なぜレイでもアスカでもなく、マリだったのか

松田:あと、最初に観たときにみなとが言っていたマリの必然性の無さ、これが考えれば考えるほどというか…そもそもおれね、彼女の必然性の無さについては、一回目に観たときは全く考えてもなかってん。

みなと:うんうん。

松田:でもね、彼女には必然性が無いということを考えながら観ると、すごい良かったというか…これまた非常にしっくりきたのよ。

みなと:そうだよね。

松田:だってさ、綾波レイちゃんも破裂しちゃうしアスカもちょっとあかん感じになっちゃうのに、マリだけピンピンしてるわけやん。

みなと:そうそう。

松田:なんだけど…それはある意味では人生の真相やねんな。必然性の無さに必然を感じたというかね

みなと:そうそう、そうだよね。

松田:必然みたいなものを期待できるほどね、単純じゃないんだよって話。

c 人生の蓋然性

みなと:それで…シンジくんはそこがゲンドウと違っていたというか、目の前にある状況にきちんと向き合えた、彼の生きている具体に向き合えたから、現実世界においてマリと一緒になるっていう世界線があり得たわけだし

松田:うん。

みなと:遡ってみるとマリしかあり得なかったんだけど、でもあの場面においては、マリには全く必然性がないんだよね。

松田:うんうん。

みなと:そもそもレイとアスカは作品を通して最初からいるし、レイにいたってはもう必然性の塊なわけじゃん。だってお母さんなんだしさ。

松田:ね、それもすごい思ったわ。第3村でレイが「ファーストロットは彼を好きになるように仕組まれている」って言ってたけど…でもそうじゃないんだよなって

みなと:そうそう、そういうことじゃないんだよ。

デイヴィッド・ドイッチュ(2013)『無限の始まり ひとはなぜ限りない可能性をもつのか』インターシフト
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世界の不確定性と、そこに期待と意志を行使できることが、我々が今ここに生きている意味なのです。

デイヴィッド・ドイッチュ(2013)『無限の始まり ひとはなぜ限りない可能性をもつのか』インターシフト

松田:それでまあなんしか、そうではなく本当に必然性がないようにしか見えないマリがっていうのが…ね。

みなと本当にそういうことなんだよなぁって

松田:そう、ほんまにそういうことやねん。だからそう考えると、今の彼女と一緒に住んでることも…まあいくらかは受け入れやすくなるかなっていう。

選べるものならこんな人生選ぶわけない

みなと:笑 だし、レイほどじゃないにしてもアスカにも必然性はあったというか、レイみたいに設定において裏付けられているわけではないけれど、作品の中で明らかに最初に好きになった人で、シンジくんにとっては異性とか他者とかを意識するきっかけになった存在だったわけじゃん。

松田:そうね、うんうん。

みなと:その上で「お互い好きだったよ」みたいに言ってるわけだしさ。だから彼女にも運命はあったと言えると思うんだけど…

松田:でも違うんだよなぁって。

みなと:そう、そういうことではないと。

キャンバスの一筆目としての意志の槍

松田:あと一回目には全く考えていなかったけど今回考えたこととして…なんかさ、最初に槍が二本あったやん。

みなと:あー、そうだね。希望の槍と絶望の槍だね

松田:そうそう。で、最初からあった希望の槍と絶望の槍が失われたときに出てきたのが意志の槍なわけやん。あれはもう…そういうことやんな。

みなと:うんうん。

松田:自分以前にあるAとĀの対立が滅却されて全くの白紙になったところに、そこで初めて、全く主体的に行使される、積極性100%の、主語が自分でしかあり得ない何かとしてあの槍が出てくるっていう…

みなと:うんうん。

松田:そういうふうにして、自分達で作ったその槍が…まあどういうことかは知らんがシンジくんの手元に降りてくるわけやん。あれもすごいしっくりきたな。

みなと:そうだよね。

松田あそこには主体性と積極性が詰まっているよ

みなと:なんか、前にも話したXだよね。

松田:そう、あれはキャンバスへの一筆目なわけ。

c 「Aを選ぶ人生じゃなくてXを見出す人生を選べよ」

目に楽しい前半と、まるで意味不明な後半の差はなぜ?

みなと:なんか…中盤以前のところは、分かりやすく目に楽しいところもたくさんあるというか、戦艦が大迫力!みたいなさ。

松田:そういうのを考えても、つくづくよくできているな思うよな。まずその線で、観てて普通に楽しいもん。しかもさ、派手な掴みになってる冒頭10分の戦闘シーンがまるまるPrime Videoで公開されてるの…ちょっと偉過ぎん?

『これまでのヱヴァンゲリヲン新劇場版』+『シン・エヴァンゲリオン劇場版冒頭12分37秒00コマ』
Image: Amazon.co.jp

『これまでのヱヴァンゲリヲン新劇場版』+『シン・エヴァンゲリオン劇場版冒頭12分37秒00コマ』 – Prime Video

c 【シリーズ イラン】イスファハーンのモスクに見る「質より量」

みなと:そうだよね。

松田:あんなん観たら、劇場に行こうって思っちゃうもん。もう巧妙というか…そういう手段を駆使できるのってすごいよなって。

みなと:気付いていないところでも、そういう装置はいっぱいあるんだろうなって感じだよね。それで前半部分のあれがあって、でも後半部分、マイナス宇宙に行ったあたりからそういう感覚的なお楽しみはもうないじゃん

松田:そうやんね、救ってくれないよね。

みなと:そうそう。もやの中で「量子テレポートを繰り返してる…」って言われても、ちょっと何言ってるのって感じだし。でかい顔がめっちゃこっち見てくるし。

松田:そうやんな笑 優しさに欠けるよね。

みなと:そう、でもやっぱり優しさに欠けるくらいじゃないとだめなのかなって気もしたし

松田:あのさ、人みたいなのがいっぱい並んで歩いてたやつが、急にファーってなって綺麗なマネキンみたいになるシーンあったやん。あそことかも、やっぱあれくらいに捨象されてないとあかん気がするもん。

みなと:そうだね。あれって徹底的に全部同じなわけじゃん。ATフィールドのない安らかな世界を表すものとして、全部同じ位置で首が切れててね

松田:あー…確かにそうか、そう考えると首が切れてるのもいいな。安らかなんだけど何もないのよね、やっぱそうじゃないんだと。

みなと:そう。

松田:ほんで…そうや。おれはあれを見ながら、先週のファッションの話を考えててん。あの記事をアップしたせいで、アテリエの2chのスレで「松田は自分のダサさを棚に上げて~」とか言われてたたかれてんけどさ。

みなと:笑 全然かかってこいって感じだね。

松田:そう、そういう話じゃないのよ。ダサいとかかっこいいとかの、もっと手前から始めないといけないのよ。まあ言いつつもね、内心「クソが」とは思ったけどね。

みなと:笑

そもそも commmon のおしゃれ担当は中垣と河東なので、ご意見はそちらまでお願いしますね

松田:でもやっぱね、変な無謬性を追求すると、それこそマネキンしかいない世界になっちゃうのよ。

最後の最後で現実世界に戻ったことの意味

みなと:終わり方も…かなりポジティブだよね。最後に現実世界に滑り込んでいく感じも、ああいうふうにしか終わりようがないと思うし

松田:最後に地べたにおろしてくる感じがもうね。あとはその直前の絵コンテのシーンも最高やと思う。

みなと:車で言うとエンジンが壊れる寸前というか、「この車はもう壊れるんですよ」って言われてるよね。

松田:そうやんね。もう終わりやねん、降りなあかんねん。

みなと:それを自分の作品でやるっていうのがすごい覚悟だよね。だって別に…ずっと閉じ込めておくことだってできるわけじゃんか。

松田:そうやんね。そっちの方がお金になりそうやし。

みなと:でもね、どこまでいっても人間に見せているものだって考えると…

松田:いや、ほんまそうやんな。鑑賞するのは生身の人間やねん。

みなと:そこが超誠実だよね。だし、それをきちんと受け取れたと思うとすごいポジティブになれるよね。映画館から出て「よしっ」って。

松田「ここから先は任せてください」って気持ちになるね。

みなと:そう、自分もやるっていう確信が得られる。ここからは僕の世界なんだっていう


みなと:主にはこんなところだと思うんだけど、調べて出てくるような考察とかを読んでると…やっぱ映画を観ただけではなかなか伝わらんのかって思うよね。

松田:ね。ほんまもう…どうしたらいいんやろうね。

2021年8月2日
新宿高島屋のベンチ

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