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思索

二種類の認知の膜

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中垣:例えば禅的な文脈でさ、世界は私であって私は世界だ、みたいな話ってあるわけやんか。

松田:うんうん。

鈴木大拙(1987)『禅』ちくま文庫
Image: Amazon.co.jp

悟りとは無限遠方を円周とする円の中心に立つことなのです

鈴木大拙(1987)『禅』ちくま文庫

中垣:で、それが人間の認知のある種の到達点であるとしたときに、そこに至るまでに、生まれてからどういう過程を経るのかっていうのを考えてたのね。

松田:はいはい。

中垣:そこで二重の膜を考えてみてん。まずひとつ目の外側の膜っていうのは、そもそも知覚できている範囲…というか、シンプルにその境界の内側のものは認知しているっていうやつ。それは目で見て耳で聞こえているみたいなことではなくて、対象物として認知しているかの問題としてね。

松田:なるほどね。

中垣:例えば赤ちゃんを思い浮かべるとさ、赤ちゃんって遠くで起こっていることとか、親が話していることでさえも対象としては認知できていないやん。音声信号としては知覚できていてもね。でもそれが大人になるにつれて、だんだんと分かるようになるわけ。実際おれは中学生のときでも、親父とおかんが話している話とかよく分かってなかったし。

分かる、あれなんでなんだろうな

松田:確かにな。なんかファミレスとかでさ、3〜4歳くらいの子供を連れたママ友らが喋っているような状況ってあるやん。あれって子供達は全然ちゃう世界におって、親の話なんて全く認識できてへんもんな。

中垣:そう。で、今「世界」って言葉が出たけど、ひとつ目の膜の内側っていうのは、その人にとっての世界やねん

ちさと:うんうん。

中垣:ほんでもうひとつ、その内側にも膜があって、この内側の膜っていうのが「私」をあらわすねん。表皮と一緒でその中が自分やねん。もちろんこう言うと「じゃあ肉体的な表皮がまさにそれじゃないか」ってなるねんけど、そうではなくて、例えば赤ちゃんのときは、服にケチャップをこぼしても自分で拭いたりはしないわけやん

松田:うんうん。

中垣:赤ちゃんはそのままほっとくわけ。自分の知っている世界で起こった出来事として認知はしてるから、汚れたことを嫌がって泣くかもしれん、けど拭こうとはしないわけ。自分の認知している世界の中での出来事ではあるけど自分のことではないから、自分で拭いたり対処したりするものではないわけよ。でもこれが大人なら、自分の服になんか付いたら自分事として拭いて終わりなわけやん。

松田:はいはい。

中垣:ここまでが二種類の認知の膜の話な。で、生まれてすぐの頃はどっちの膜も全然広くないわけ。赤ちゃんの膜はどっちもばりちっちゃい。

松田:そうやんな。その世界の膜の狭さが示すのは、自身の経験が周囲の実世界へまだ全然及んでいないということやんな。

中垣:そうそう。これで何が言いたいかって、例えば「禅マスター」みたいなんがおったとしたら…

c 禅的公共観

松田:禅マスターの場合は、無限遠方にある世界の外縁部分で「世界の膜」と「私の膜」が一致してるんやんな。私と世界が一致していて、かつそれが世界の現実的で物理的な広がりとも一致している。

中垣:そう。禅マスターのそれはもう宇宙といってもいい

松田:宇宙と言ってもいい…!

スピった

ちさと:笑

中垣:まあ禅マスターにとっての膜はもはや便宜的なものであって、特に境界はないんやけどな。

松田:無限遠方のそれやからね。

道流、你欲得如法、但莫生疑。 展則彌輪法界、收則絲髮不立。歷歷孤明、未會欠少。眼不見、耳不聞、喚作什麼物。古人云、說似一物則不中。你但自家看。

道流、你如法ならんと欲得すれば、但だ疑を生ずること莫れ。展ぶる則は法界に弥綸し、収むる則は糸髪も立たず。歴歴孤明にして、未だ曾て欠少せず。眼見ず、耳聞かず。喚んで什麼物とか作す。古人云く、説似一物即不中と。你但だ自家に看よ。

諸君、まともでありたいならば、疑念を起こしてはならぬ。拡げれば宇宙いっぱいに充ち溢れ、収めれば髪の毛一本立てる隙もない、明々白々として自立し、いまだかつて欠けたことはない。眼にも見えず、耳にも聞こえない。さてそれを何と呼ぶか。『それと言いとめたらもう 的はずれ』と古人は言った。君たち、ただ自分の目で見て取れ。

Source: 入矢義高訳註(1989)『臨済録』岩波文庫

入矢義高訳註(1989)『臨済録』岩波文庫

中垣:そうそう。それでおれの説では、赤ちゃんは生まれてすぐに世界の膜がすごく広がるねん。これが加速度的に広がる。

It is to a baby that the world appears as a blur of motion, without things that move – and the birth of his mind is the day when he grasps that the streak that keeps flickering past him is his mother and the
whirl beyond her is a curtain, that the two are solid entities and neither can turn into the other, that they are what they are, that they exist.

Source: Ayn Rand(2005)『Atlas Shrugged』Signet

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Ayn Rand(2005)『Atlas Shrugged』Signet

ちさと:確かに確かに。

中垣:私の膜はまだそんなに広がらへんねんけど、世界の膜は結構えぐいスピードで広がっていくねん。で、世界の膜は最初にブワーって広がって、15歳から20歳くらいまでにたぶんほぼほぼ完成するねんな。一方で私の膜の方は、10数歳から徐々に広がっていくねんけど、どこまで広がるかの程度は結構人によりけりやねん

一説です

松田:うんうん。

中垣:話はいったんここまでやねんけど、ここでひとつ具体例を出しときたい。今言ったように世界の膜が広がっていくのはまあ分かるというか、当たり前の話やん。で、私の膜が広がっていくのがどういうことかって言うと、例えば赤ちゃんのときは自分の服にこぼしたケチャップを拭こうとしないけど、だんだん拭けるようになるとか。あるいは…

松田:そもそも赤ちゃんのときってさ、おむつの中で排便してそれが不快であるとか、あるいはお腹が空いたっていうようなことでさえ自分事じゃないわけやん。それでさえ母親が勝手に解決してくれる問題であって、だからギャン泣きするんやん。

中垣:そうそう、まさにその通りやねん。だから例えば禅マスターの域にまでいっちゃえば、誰が自分にとって不快な発言をしようと、安倍政権がうざかろうと、文句は絶対に言わへんねん。だってそれらは自分ではない対象ではないから。文句は…まあ便宜的に言ってもいいけど、言う必要がないわけ。自分のことやから、黙って自分でなんとかすればいいねん

それがなんであれ何かに不平不満を感じるとき、その裏には、その不平不満の対象が自分にとって解決可能な課題ではない、あるいはその課題は自分以外によってのみ解決され得るという、一種の自己効力感の不足が存在していると思います。
例えば机の上からペンを落としてしまった場合、その事態に対して極端な苛立ちをおぼえる人はおらず、黙って拾って仕事なり読書なりに戻る人がほとんどだと思います。これはその事態がごく些細なものであり、その事態の解消にあたって自分が十分な能力を持っているという認識がある、つまり十分な自己効力感があることによるものです。
次に、これよりもう少し危うい例として、綿棒をケースごと床に落として中身が散乱してしまった場合を考えてみると、先ほどのペンの例と比べて苛立ちの程度や腰の重さがより強いことが予想されると思います。その事態の解決にあたっての手間を考えると、もちろんこれも当然のことです。それよりさらにひどい例としてはファンデを落として粉々にしてしまったなどがあると思いますが、ここで言いたいのは、事態が自分にとって容易に解決可能であるかどうかと、その事態に対する不平不満の強さというのは、おおよそ反比例の関係にありそうだということです。
このように、世界は自分を中心にそこから(物理的にも精神的にも)離れるにつれて、制御可能で十分な影響力を及ぼせる領域から、制御不可能で自分とは関係なく自律的に展開している(と思われる)領域までのグラデーション、言い換えると自己効力感を持てる領域から全く持てない領域までのグラデーションを描いて存在しています。このうち、最も自分に近く十分な自己効力感を持って積極的に働きかけられる領域が精神発達につれ拡大していくのではないかというのが、「私の膜」の要旨です。

中垣:あとは例えば掃除の話をすると、人は成長するにつれて自分の部屋くらいは掃除できるようになるわけやん。まあおれはできひんけど。さらにこれ、中高生とかやとまだポイ捨てしたりすんねんけど、20歳くらいにもなったら自分の家の周りとかにポイ捨てするやつはさすがにいないわけ

松田:はいはい。

中垣:で、松田はどうなん?って話やねんけど…

松田:前提として、さすがに最近はしなくなったよ。

中垣:…でもたまにしてるよ?

松田:あー、なるほど。

Source: commmon

c ポイ捨ての是非を検討する

中垣:要は自分の部屋とか街を汚さへんことが示してんのは、そこは私の膜の内側に含まれているってことやねん。自分の部屋にポイ捨てするやつなんかおらんやん、そんなんあほやん? だって自分の部屋は自分でけつ拭かなあかんから。そういうふうに、ここまでは私だっていう領域がだんだん広がっていくねん。これで「私の膜」っていうのがなんなのか、だいたい分かってもらえたと思うねんけど。

藤後:なるほどな。

中垣:それでもうちょっと普通の話をするとさ、同期が100人くらいおるねんけど、中には研修の時点で会社の文句言ってるやつもいんの。まじで意味分からんなと思って。それって要は、会社が対象であって自分ではないわけやん。文句あるなら辞めるか、変えていくためになんかネゴるかしろよって

藤後:そういう人って私の膜を会社にまで広げるのが怖いんじゃないかな。

中垣:怖いんやと思う。

松田:そうそう。だから基本的にはそうやねん、私の膜を世界の膜に寄せていくのは怖いわけ。責任を持たなければいけないことが増えるし、誰かのせいにできることは減るねんから

ちさと:うんうん。

松田:あとはさっきの話で思ったんが、確かに世界の膜と私の膜は一致している方がフィット感が高いんだけれども、一方でもし世界の膜がごく狭い範囲にとどまっているのであれば、そのフィット感っていうのは犬畜生のそれであって…

中垣:そうやねん。

松田:別になんやろ、知的存在たる人間の達成としては、いまいちパッとせんよな。

中垣:そう考えるとさ、ちょっと乱暴ではあるけど、世界の膜はインテレクチュアルで、私の膜はフィジカルと言ってもほぼほぼ問題はないと思うねん。インテレクチュアルとフィジカルの文脈でね。

松田:あー、なるほどね。

c インテレクチュアルとフィジカルの乖離

中垣:それはなんでかって言うと、この世界の膜っていう概念は別に実在する世界とか見えている世界とかそういうことではなくて、自分が対象化できている世界、要は自分が言葉にできる世界っていうことやから、それはつまり知性の範囲であるって言えるねん。

世界の膜は知性のリーチ、私の膜は実際の行動のリーチ

藤後:うんうん。

中垣とにかくおれがみんなに期待しているのは、この膜の理論をもうちょっとアップデートしてほしいねん。なんか…例えば人に裏切られたっていう経験はこれによって説明できるのか、できるとしたらどう説明できるのか、とかね。

2019年10月18 日
東京ミッドタウン

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