中垣:例えば禅的な文脈でさ、
松田:うんうん。
悟りとは無限遠方を円周とする円の中心に立つことなのです
中垣:で、それが人間の認知のある種の到達点であるとしたときに、そこに至るまでに、生まれてからどういう過程を経るのかっていうのを考えてたのね。
松田:はいはい。
中垣:そこで二重の膜を考えてみてん。
松田:なるほどね。
中垣:例えば赤ちゃんを思い浮かべるとさ、
分かる、あれなんでなんだろうな
松田:確かにな。なんかファミレスとかでさ、3〜4歳くらいの子供を連れたママ友らが喋っているような状況ってあるやん。あれって子供達は全然ちゃう世界におって、親の話なんて全く認識できてへんもんな。
中垣:そう。で、今「世界」って言葉が出たけど、
ちさと:うんうん。
中垣:ほんでもうひとつ、その内側にも膜があって、
松田:うんうん。
中垣:赤ちゃんはそのままほっとくわけ。自分の知っている世界で起こった出来事として認知はしてるから、汚れたことを嫌がって泣くかもしれん、けど拭こうとはしないわけ。
松田:はいはい。
中垣:ここまでが二種類の認知の膜の話な。で、生まれてすぐの頃はどっちの膜も全然広くないわけ。赤ちゃんの膜はどっちもばりちっちゃい。
松田:そうやんな。その世界の膜の狭さが示すのは、自身の経験が周囲の実世界へまだ全然及んでいないということやんな。
中垣:そうそう。これで何が言いたいかって、例えば「禅マスター」みたいなんがおったとしたら…
c 禅的公共観
松田:禅マスターの場合は、
中垣:そう。
松田:宇宙と言ってもいい…!
スピった
ちさと:笑
中垣:まあ禅マスターにとっての膜はもはや便宜的なものであって、特に境界はないんやけどな。
松田:無限遠方のそれやからね。
道流、你欲得如法、但莫生疑。 展則彌輪法界、收則絲髮不立。歷歷孤明、未會欠少。眼不見、耳不聞、喚作什麼物。古人云、說似一物則不中。你但自家看。
道流、你如法ならんと欲得すれば、但だ疑を生ずること莫れ。展ぶる則は法界に弥綸し、収むる則は糸髪も立たず。歴歴孤明にして、未だ曾て欠少せず。眼見ず、耳聞かず。喚んで什麼物とか作す。古人云く、説似一物即不中と。你但だ自家に看よ。
諸君、まともでありたいならば、疑念を起こしてはならぬ。拡げれば宇宙いっぱいに充ち溢れ、収めれば髪の毛一本立てる隙もない、明々白々として自立し、いまだかつて欠けたことはない。眼にも見えず、耳にも聞こえない。さてそれを何と呼ぶか。『それと言いとめたらもう 的はずれ』と古人は言った。君たち、ただ自分の目で見て取れ。
Source: 入矢義高訳註(1989)『臨済録』岩波文庫
中垣:そうそう。それでおれの説では、
It is to a baby that the world appears as a blur of motion, without things that move – and the birth of his mind is the day when he grasps that the streak that keeps flickering past him is his mother and the
Source: Ayn Rand(2005)『Atlas Shrugged』Signet
whirl beyond her is a curtain, that the two are solid entities and neither can turn into the other, that they are what they are, that they exist.
Ayn Rand(2005)『Atlas Shrugged』Signet
ちさと:確かに確かに。
中垣:私の膜はまだそんなに広がらへんねんけど、世界の膜は結構えぐいスピードで広がっていくねん。で、世界の膜は最初にブワーって広がって、15歳から20歳くらいまでにたぶんほぼほぼ完成するねんな。一方で私の膜の方は、10数歳から徐々に広がっていくねんけど、
一説です
松田:うんうん。
中垣:話はいったんここまでやねんけど、ここでひとつ具体例を出しときたい。今言ったように世界の膜が広がっていくのはまあ分かるというか、当たり前の話やん。で、私の膜が広がっていくのがどういうことかって言うと、
松田:そもそも赤ちゃんのときってさ、
中垣:そうそう、まさにその通りやねん。だから例えば
それがなんであれ何かに不平不満を感じるとき、その裏には、その不平不満の対象が自分にとって解決可能な課題ではない、あるいはその課題は自分以外によってのみ解決され得るという、一種の自己効力感の不足が存在していると思います。
例えば机の上からペンを落としてしまった場合、その事態に対して極端な苛立ちをおぼえる人はおらず、黙って拾って仕事なり読書なりに戻る人がほとんどだと思います。これはその事態がごく些細なものであり、その事態の解消にあたって自分が十分な能力を持っているという認識がある、つまり十分な自己効力感があることによるものです。
次に、これよりもう少し危うい例として、綿棒をケースごと床に落として中身が散乱してしまった場合を考えてみると、先ほどのペンの例と比べて苛立ちの程度や腰の重さがより強いことが予想されると思います。その事態の解決にあたっての手間を考えると、もちろんこれも当然のことです。それよりさらにひどい例としてはファンデを落として粉々にしてしまったなどがあると思いますが、ここで言いたいのは、事態が自分にとって容易に解決可能であるかどうかと、その事態に対する不平不満の強さというのは、おおよそ反比例の関係にありそうだということです。
このように、世界は自分を中心にそこから(物理的にも精神的にも)離れるにつれて、制御可能で十分な影響力を及ぼせる領域から、制御不可能で自分とは関係なく自律的に展開している(と思われる)領域までのグラデーション、言い換えると自己効力感を持てる領域から全く持てない領域までのグラデーションを描いて存在しています。このうち、最も自分に近く十分な自己効力感を持って積極的に働きかけられる領域が精神発達につれ拡大していくのではないかというのが、「私の膜」の要旨です。
中垣:あとは例えば掃除の話をすると、人は成長するにつれて自分の部屋くらいは掃除できるようになるわけやん。まあおれはできひんけど。さらにこれ、中高生とかやとまだポイ捨てしたりすんねんけど、20歳くらいにもなったら
松田:はいはい。
中垣:で、松田はどうなん?って話やねんけど…
松田:前提として、さすがに最近はしなくなったよ。
中垣:…でもたまにしてるよ?
松田:あー、なるほど。
Source: commmon
中垣:要は
藤後:なるほどな。
中垣:それでもうちょっと普通の話をするとさ、同期が100人くらいおるねんけど、中には研修の時点で会社の文句言ってるやつもいんの。まじで意味分からんなと思って。
藤後:そういう人って私の膜を会社にまで広げるのが怖いんじゃないかな。
中垣:怖いんやと思う。
松田:そうそう。だから基本的にはそうやねん、私の膜を世界の膜に寄せていくのは怖いわけ。
ちさと:うんうん。
松田:あとはさっきの話で思ったんが、確かに世界の膜と私の膜は一致している方がフィット感が高いんだけれども、一方で
中垣:そうやねん。
松田:別になんやろ、知的存在たる人間の達成としては、いまいちパッとせんよな。
中垣:そう考えるとさ、ちょっと乱暴ではあるけど、
松田:あー、なるほどね。
中垣:それはなんでかって言うと、この世界の膜っていう概念は別に実在する世界とか見えている世界とかそういうことではなくて、
世界の膜は知性のリーチ、私の膜は実際の行動のリーチ
藤後:うんうん。
中垣:
2019年10月18 日
東京ミッドタウン
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