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思索

二種類の認知の膜

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中垣:例えば禅的な文脈でさ、世界は私であって私は世界だ、みたいな話ってあるわけやんか

松田:はいはい。

悟りとは無限遠方を円周とする円の中心に立つことだと、鈴木大拙も言っています

中垣:で、それが人間の認知のある種の到達点であるとしたときに、そこに至るまでに生まれてからどういう過程を経るのかっていうのを考えてたのね

中垣そこで、なんか二重の膜を考えてん。ひとつ目の外側の膜っていうのは、そもそも知覚する膜…というか、その境界の内側のものは認知しているっていうやつ。それは目で見て耳で聞こえている、みたいなことではなくて、対象物として認知しているかの問題で。

中垣:例えば赤ちゃんを思い浮かべるとさ、赤ちゃんって遠くで起こっていることとか、親が話していることさえも対象としては認知できていないやん。音声信号としては知覚できていても。それが例えば大人になるにつれてだんだん分かるようになるわけ。おれは中学生のときでも、親父とおかんが話している話とかよく分かってなかったし

分かる。あれなんでなんだろうな

松田:確かにな。なんかファミレスとかでさ、3~4歳くらいの子供をつれたママ友らが喋っているような状況ってあるやん。あれって子供達は全然ちゃう世界におって、親の話なんて全く認識できてへんもんな

中垣:そう。で、今「世界」って言葉が出たけど、ひとつ目の膜、境界っていうのは、その人にとっての世界やねん

ちさと:うんうん。

中垣:ほんでもうひとつ、その内側にも膜があって、この内側の膜っていうのが「私」をあらわすねん。表皮と一緒で、この中が自分やねん。こう言うと「じゃあ肉体的な表皮がまさにそれじゃないか」ってなるねんけど、そうではなくて、例えば赤ちゃんのときは、服にケチャップをこぼしても自分で拭いたりはしないわけやん

松田:うんうん。

中垣:ほっとくわけ。でも世界で起こった出来事として認知はしてるから、汚れたことを嫌がって泣くかもしれん。けど拭こうとはしないわけ。自分の認知している世界の中での出来事ではあるけど自分のことではないから、自分で拭いたり対処したりするものではないわけよ。でも大人なら、自分の服になんか付いたら自分事として拭いて終わりなわけやん。

松田:はいはい。

中垣:ここまでが二種類の認知の膜の話な。で、生まれてすぐの頃はどっちの膜も全然広くないわけ。赤ちゃんの膜はどっちもばりちっちゃい。

松田:そうやんな。周囲の実世界を自分の経験的な世界に統合できていないってことを示しているのが、世界の膜の狭さやんな

中垣:そうそう。これで何が言いたいかって、例えば「禅マスター」みたいなんがおったとしたら…

松田:禅マスターの場合は、世界の一番遠い外縁部分で「世界の膜」と「私の膜」が一致してるんやんな。私と世界が一致していて、かつそれが現実的な世界の物理的な広がりとも一致している

中垣:そう。禅マスターのそれはもう宇宙といってもいい

松田:宇宙と言ってもいい…!

スピった

ちさと:笑

中垣:禅マスターの膜はもはや便宜的なものであって特に境界はないんやけどな。

松田無限遠方やんな

無限遠方を円周とする円の中を縦横無尽に駆け巡るのが禅マスター

中垣:そうそう。で、おれの説では、赤ちゃんは生まれてすぐに世界の膜がすごく広がるねん。これが加速度的に広がる。

It is to a baby that the world appears as a blur of motion, without things that move – and the birth of his mind is the day when he grasps that the streak that keeps flickering past him is his mother and the
whirl beyond her is a curtain, that the two are solid entities and neither can turn into the other, that they are what they are, that they exist.

Ayn Rand『Atlas Shrugged』NAL

ちさと:確かに確かに。

中垣:私の膜はまだそんなに広がらへんねんけど、世界の膜は結構エグいスピードで広がっていくねん。で、この世界の膜は最初にぶわーって広がって、15歳から20歳くらいまでにたぶんほぼほぼ完成するねんな。で、私の膜の方は最初はそんなに広がらずに、10数歳から広がっていくねんけど、どこまで広がるかの程度は結構人によりけりやねん。っていう感じ。

松田:うんうん。

中垣:だからたぶん、20歳頃以降に私の膜をどこまで広げていけるかはその人次第、みたいな話になってて。

中垣:話はいったんそれまでやねんけど、ここで一個具体例を出しときたい。今言った世界の膜が広がるのは分かるやん。まあ当たり前の話やん。で、私の膜が広がっていくってどういう話かって言うと、例えば赤ちゃんのときは自分の服にこぼしたケチャップを拭こうとしないけど、だんだん拭けるようになるとか。あるいは…

松田そもそも赤ちゃんのときってさ、例えばおむつの中で排便してそれが不快であるとか、あるいはお腹が空いたっていうようなことでさえ自分事じゃないわけやん。それでさえ母親が勝手に解決してくれる問題であって。だからギャン泣きするんやん。

中垣:そうそう。まさにその通りで。例えば禅マスターの域にまでいっちゃえば、誰が自分にとって不快な発言をしようと、安倍政権がうざかろうと、文句は絶対言わへんねん。だってそれらは自分ではない対象ではないから。文句は…まあ便宜的に言ってもいいけど、言う必要がないわけ。自分のことやから、黙って自分でなんとかすればいいねん

それがなんであれ何かに不平不満を感じるとき、その裏には、その不平不満の対象が自分にとって解決可能な課題ではない、あるいはその課題は自分以外によってのみ解決され得るという、一種の自己効力感の不足が存在していると思います。例えば机の上からペンを落としてしまった場合、その事態に対して極端な苛立ちをおぼえる人はおらず、黙って拾って仕事なり読書なりに戻る人がほとんどだと思います。これはその事態がごく些細なものであり、その事態の解消にあたって自分が十分な能力を持っているという認識がある、つまり十分な自己効力感があることによるものです。次に、これよりもう少し危うい例として、綿棒をケースごと床に落として中身が散乱してしまった場合を考えてみると、先ほどのペンの例と比べて苛立ちの程度や腰の重さがより強いことが予想されると思います。その事態の解決にあたっての手間を考えると、もちろんこれも当然のことです。それよりさらにひどい例としてはファンデを落として粉々にしてしまったなどがあると思いますが、ここで言いたいのは、事態が自分にとって容易に解決可能であるかどうかと、その事態に対する不平不満の強さというのは、おおよそ反比例の関係にありそうだということです。このように、世界は自分を中心にそこから(物理的にも精神的にも)離れるにつれて、制御可能で十分な影響力を及ぼせる領域から、制御不可能で自分とは関係なく自律的に展開している(と思われる)領域までのグラデーション、言い換えると自己効力感を持てる領域から全く持てない領域までのグラデーションを描いて存在しています。このうち、最も自分に近く十分な自己効力感を持って積極的に働きかけられる領域が、精神発達につれ拡大していくのではないかというのが「私の膜」の要旨です。

中垣:あとは例えば掃除の話をすると、人は成長するにつれて自分の部屋くらいは掃除できるようになるわけやん。おれはできひんけど。それはたぶん、10歳くらいでもできる子はできるねんな。でも10歳の子やとまだポイ捨てはすんねんけど、20歳くらいになったら自分の家の周りとかにポイ捨てするやつはさすがにいないわけ

松田:はいはい。

中垣:で、通学路とかにもあんまポイ捨てせえへんかもしれへん、あるいは知ってる街はポイ捨てせえへんとか。要は通学路とか自分の部屋を汚さへんことが示してんのは、そこは私の膜に含まれているってことやねん。自分の部屋にポイ捨てはせえへんやん。アホやんそんなん、自分の部屋やから自分でけつ拭かなあかんねんから。みたいなふうに、私の領域がだんだん広がっていく。これで私の膜っていうのがなんなのか、だいたい分かってもらえたと思うねんけど

中垣:で、こっからはどうやって私の膜を世界の膜に近づけていくかっていう話やねん。でもまあ、それはおれの専門外で、それよりここでおれが知りたいのは、ホームレスってなんやねんって話やねん

松田:あー、はいはい。

中垣:ホームレスっていうのはさ、構造的には禅マスターにすごく近い気がすんねん

ちさと:うんうん。

松田世界の膜は比較的狭いんだけれども、その限りにおいては私の膜が世界の膜に重なっている感じ…

中垣:そう。だからごく狭い世界で、そいつなりの幸せを実現できているというか、すごくフィット感の高い生活を送れているとも言える。

よけい:笑

藤後ホームレスの場合はさ、どうやって世界の膜と私の膜が一致したんやろう。世界の膜はそもそも広がらなかったのか、いったん広がったものが狭まったのか。

松田:それはやっぱり後者ちゃう? 何かしらをきっかけに社会との断絶が起こって世界の膜が狭まって、そのまま生活してるって感じ

中垣:そうやんな。自分が臭いのを特に気にしないくらいには世界の膜が狭い。

よけい:それは私の膜が狭いってことにはならないの?

中垣:あー確かに、どうなんやろ。

松田:でもホームレス、内心どう思ってるかはともかく、特に臭いことに文句を抱いてそうでもないよな。

藤後:もしかしたらホームレスは世界の膜も私の膜も限りなく狭いんじゃないかな。むずいな。

中垣:なんかもうちょっと普通の話をするとさ、同期が100人くらいおるねんけど、中には研修の時点で会社の文句言ってるやつもいんの。まじで意味分からんなと思って。それって要は、会社が対象であって自分ではないわけやん。文句あるなら辞めるか、変えていくためになんかネゴるかしろよって

藤後そういう人って私の膜を会社にまで広げるのが怖いんじゃないかな

中垣:怖いんやと思う。

松田:そうそう。だから基本的にはそうやねん。私の膜を世界の膜に寄せていくのは怖いわけ。

ちさと:うんうん。

松田:で、それにあたってちょっと思うのは、禅的、悟り的な全体観においては、全体っていうのは部分の集合ではなく、分節なくまるっとひとつなわけよ

中垣:うんうん。

松田:そういう全体観のもと世界を見ていれば、主客の対立はそもそも生起するものではなくて、すなわち損も得もないんだけれど、部分の集合として世界の膜の内側を眺めていると、どうしても利己的な気持ちが働いちゃう

中垣ここまでが自分っていう線が引けちゃうもんな。ここまでが自分に関係するもの、って。

松田:そうそう。で、さっきの話で思ったんが、確かに世界の膜と私の膜っていうのは一致している方がフィット感が高いんだけれども、一方でもし世界の膜がごく狭い範囲にとどまっているのであれば、そのフィット感っていうのは犬畜生のそれであって…

中垣:そうやねん。

松田:別になんやろ、知的存在たる人間の達成としては、いまいちパッとせんよな。

中垣:なんやろ。そう考えるとさ、ちょっと乱暴ではあるけど、世界の膜っていうのはインテレクチュアルで、私の膜はフィジカルと言ってもほぼほぼ問題はないと思っていて。インテレクチュアルとフィジカルの文脈で。

松田:あー、なるほどね。

中垣:それはなんでかって言うと、この世界の膜っていう概念が結構良くて、それは実在する世界とか見えている世界とかそういうことではなくて、自分が対象化できている世界ってこと、要は自分が言葉にできる世界っていうことやから、それはつまり知性の範囲であるって言えるねん

世界の膜は知性のリーチ、私の膜は実際の行動のリーチ

中垣:それでさ、やっぱりホームレスは世界の膜から縮んでいってるはずやねん。つまり、基本的には世界の膜が広がっていって、私の膜もそれに追いついていって禅マスターになっていった方がいいと。なんだけど、世の中にはもうひとつ二種類の膜が重なっている人間がいて、それがホームレスだと。ホームレスがどうなっているかって言うと、一度広がった世界の膜が、私の膜に追いつかれるのではなく再び狭まって私の膜に一致してしまっていると

藤後:うんうん。

よけい私の膜は狭まりはしないんだよね?

中垣:うーん、たぶん。私の膜が狭まるってどういう感じなんやろ。

松田:信頼していた人にめっちゃ裏切られるとか笑

中垣:あーそうやね。

よけい:それって世界の膜が狭まるんじゃないかなとも思うけど。他人に裏切られると。

藤後:私の膜が狭まるときって、別にあると思うけどな。

中垣:うーん、むずいな。

よけい:そうなったときに…うーん。

中垣とにかくおれがみんなに期待しているのは、この膜の理論をもうちょっとアップデートしてほしいねん。なんか今みたいな、例えば人に裏切られたっていう経験はこれによって説明できるのか、できるとしたらどう説明できるのか、とか。

2019年10月18 日
東京ミッドタウン