みなと:これ、
松田:うん、確かに…てかそれも思ったわ。えらいなって言うんじゃないけど、95年からずっとやってるわけやろ?
みなと:うんうん。
松田:ほんでさ…まあその間、瑣末な部分でテーマがブラッシュアップされることはあるいはあったのかもしれないけれど、
みなと:うんうん。
松田:それがさ、最初のアニメ版では「ちょっと分かんないかな…」って感じで終わっちゃって、じゃあってことで旧劇場版を作って、それでも十分じゃなくてまた新劇場版を作って、それはそれでえらい時間がかかっちゃって…でやってきたわけでしょ。
みなと:自分が鬱になりながらね。
松田:そこまでして、
みなと:えらい…し、
松田:そう、そうそう。それも思ってん、やっぱりそれが何であれ、確信の度合いが十分に強ければそれを人に伝えたいと思うはずでさ…で、ここからは無理矢理おれの文脈にあれするねんけど。
みなと:引きずり込んで、ね笑
文脈に全面的に依存して「あれ」とか言うのやめて?
松田:そう笑 で、その上で言わせてもらうと、
みなと:うんうん。
松田:なんだけど…まあ悟りでもなんでもいいけど、何かを強く確信すればするほど、次はそれをいかにして伝えていくかが主題になると、これはもう不可避なフェーズやと思うねん。
みなと:うん。
松田:…っていう実践をこの二十数年ずっとやってるんだろうなっていう、そういう理解を前提に「ほんとえらいなぁ」って。
みなと:なるほどね。だし…それで言うと、
松田:うん、そうやんね。あそこでもって、
他のクルーの女の子二人に銃を向けられても「は、行くし」って言ってるシーン超好き
祇如今有一箇佛魔、同體不分、如水乳合、鵝王喫乳。如明眼道流、魔佛俱打。你若愛聖憎凡、生死海裏浮沈。
祇だ如今一箇の仏魔有り、同体にして分かたざること、水乳の合するが如きも、鵝王は乳を喫す。明眼の道流の如きは、魔仏俱に打す。你若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に浮沈せん。
たとえばここに仏と魔が一体不分の姿で出てきて、水と乳とが混ぜ合わさったようだとする。そのとき鵝王は乳だけを飲む。しかし眼力を具えた修行者なら、魔と仏とをひとまとめに片付ける。君たちがもし聖を愛し凡を憎むようなことなら、生死の苦海に浮き沈みすることになろう。
Source: 入矢義高訳註(1989)『臨済録』岩波文庫
みなと:でさ、何かしらと対峙するというのがこの映画のひとつの重要なテーマだとしてなんだけど、人類補完計画をやめさせた上でエヴァがない世界を選ぶってなったときに、自分の関わってきた一人一人を見送ってあげるみたいなシーンが最後にあったじゃん。
松田:はいはい。
みなと:あれってさ、アニメとしての終わらせ方の装置という面はもちろんあると思うんだけど、
松田:うんうん。
みなと:例えばゲンドウとはあれだけ長い時間向き合って、結構核心を突くようなことを言ってたりするわけじゃん。「それは自分の弱みを認めないからじゃないの」とかさ。
松田:そうねそうね。
みなと:そういうのは、監督自身の実践としてだけじゃなくて、アニメの中でも描こうとしているんじゃないかなって。
松田:確かにね。あのシーン、かなりこう説いて諭す感あったもんね。ちゃんと分かりやすい言葉で、丁寧に繰り返し言っていた感というか。
みなと:僕は個人的にはあそこのシーンが好きで、
松田:うんうん。あれはこう、村で引きこもっていた前半の状況とは明確に対比されるよね。
みなと:そうだね。
ところで「人間関係がどうしたこうしたがテーマです、シンジくんは成長しました」とか言うてるアホな考察がネット上には散見されますが、外形的なとこだけ見てたらあかんのよと言ってあげたいですね。
松田:まあなんて言えばええのかな、やっぱり内に向いていたものが外に向く感じというか、
みなと:…そうか、録音を聞いてる未来の松田に話してるのね。
松田:あ、そうそう。
みなと:なんかメタってるな笑
松田:笑 でもやっぱさ、
みなと:うんうん、そうだよね。
すべて創造的なものには、相反するものの統合がなんらかの形で認められる。両立しがたいと思われていたものが、ひとつに統合されることによって創造がなされる。これを心理的にみてみると、まず心の中に定立するものがあり、それに対して反定立するものが存在する。そこで、その片方を抑圧してしまえば簡単な解決が得られるが、それは創造的とは言えない。そこで、自我はその両方に関与してゆこうと努力すると、自我はどちらにも傾けないので、一種の停止状態におちいってしまう。ここで、自我をはたらかせていた心的エネルギーは退行を起こし、無意識内へと帰ってゆくことになる。
Source: 河合隼雄(2017)『無意識の構造』中央公論新社
松田:だから…あるいはあの引きこもりシーンってさ、またまた文脈を載せ替えちゃうねんけど、あれはまさに禅と実存主義との違いが現れるポイントだとも言えると思うねん。
みなと:…なるほど、なるほどね。
松田:実存主義はどこまでいってもイズムであるがゆえに、自由を前にその重責を引き受けきれずに硬直して身動きが取れなくなってしまうわけやん。つまり実存主義は、村で引きこもってるシンジくん止まりやねん。
みなと:うんうん。
松田:…なんだけどシンジくんは、
みなと:うんうん。
実存主義者は、たいてい相対の世界で自由を解釈するが、もっとも高い意味での自由はそこにはない。自由は、“タタター”およびその体験に関するものとしてのみ語り得る。実存主義者は、“タタター”の深淵をのぞき込んで身震いする。そして名状しがたい恐怖に捉われる。禅は、かれに言うであろう。「なぜ、深淵の只中に飛び込んで、そこに何があるかを見ないのか」と。宿命的な利己主義の考えが、ついにかれが虎穴に飛び込むのを引き止めてしまうのである。
Source: 鈴木大拙(1987)『禅』ちくま文庫
松田:禅のみが持ち得る、無限の可能性を前にしての圧倒的な積極性、
みなと:そうだねそうだね。
松田:その辺りがおれの思うところかな。
みなと:うんうん。あとは何を話そうと思ってたっけな…なんかシンジくんが
松田:あー、はいはい。
みなと:あとは
松田:うんうん。
みなと:で、その相補性っていうのがいまいち自分ではよく分かんなくて、字面だけだと「僕も不完全で君も不完全だから一緒に助け合ってやっていこうね」みたいにしか見えなかったんだけど…
相補性とは、光や電子の粒子性と波動性や、古典論における因果的な運動の記述と量子論における確率的な運動の記述のように、互いに排他的な性質を統合する認識論的な性質であり、排他的な性質が相互に補うことで初めて系の完全な記述が得られるという考えのことである。
Source: Wikipedia
松田:いやぁ、
みなと:やっぱそうなのか。
素直かな?
松田:まあ知らんで、おれにとってはという話やけどね笑
みなと:まあまあ。でも相補性って言葉をちゃんと調べた感じだと、映画の中では「肩を組んで前向いて行こうな」くらいの意味合いで使われてるのかなと思ったんだけど、松田の言うそれっていうのはどんな感じなの?
松田:えっとね、華厳哲学の縁起の思想っていうのがあるねんけど…
みなと:縁起が良いの縁起? それで言うと、縁って言葉も映画の中でめっちゃ出てきたよね。
松田:あー、そうそう。ちなみにこの
みなと:はいはい。
松田:それでその世界観やねんけど、まあざっくりと、部分っていうのは他の部分との相互相関のもとで初めてあるものだ、的な考え方なんかな。
みなと:なるほどね。
松田:つまりさ、例えばA・B・Cっていうものがあったときに、互いに退ける形で独立したA・B・Cそれぞれがあってその集合として全体があるというよりは、
みなと:うんうん、なるほどね。
華厳存在論は、「事事無礙」のレベルに至って、ものには「自性」はないけれども、しかもものとものとの間には区別がある、と主張する。つまり、Aは無「自性」的にAであり、Bは無「自性」的にBであり、同様に他の一切のものが、それぞれ無「自性」的にそのものである、というのです。
(中略)
例えばAというもののAとしての存立には、BもCも、その他あらゆるものが関わっている。Bというもの、Cというもの、その他一切、これとまったく構造は同じです。結局、すべてが全てに関わり合うのであって、全体関連性を無視しては一物の存在も考えることができない。
(中略)
ある一物の現起は、すなわち、一切万法の現起。ある特定のものが、それだけで個的に現起するということは、絶対にあり得ない。常にすべてのものが、同時に、全体的に現起するのです。事物のこのような存在実相を、華厳哲学は「縁起」といいます。
Source: 井筒俊彦(2019)『コスモスとアンチコスモス 東洋哲学のために』岩波文庫
井筒俊彦(2019)『コスモスとアンチコスモス 東洋哲学のために』岩波文庫
松田:それで今言ってた相補性っていうのも、まあそういうノリなんかなとかね。あとは…似たようなアイデアとしてアメリカ先住民のラコタ族の mitakuye oyasin っていう言葉があるねんけど、これが意味するところは、
ゴローズのTシャツに mitakuye oyasin って書いてるのほんとうざいと思ってます
みなと:なるほどね。あと今回の新劇場版ではあまり明確には描かれてなかったけど、テレビシリーズでは実際に人類補完計画が実行されて…で、
松田:だからあれでしょ、お母さんの画面いっぱいのでかい顔が出てくるシーンがあったけど、あのノリでしょ。
みなと:そうそう。あれに全人類をまとめちゃえばいいみたいな感じなんだけど…
松田:でもそれはちゃうよね。
みなと:そうそう、ほんと非常によくないんだけど…で、テレビシリーズでは、それが全部シンジくんに集まってくるって設定なんだよね。
松田:へー。
みなと:それで全人類がシンジくんに集約されていく過程で、彼は当然すごい葛藤を覚えるんだよね。で、自分が望めばもう一度人に戻すこともできるんだけど、その世界は自分が今まで傷ついてきた苦しい世界だと。
松田:はいはい。
みなと:他方で
松田:なるほど。
みなと:それで…例えばアスカを例に出すと「アスカだけがいる…なんだこの世界は」みたいにシンジくんはなって、そこでアスカは「私の中にいるシンジ」みたいなことを言っていたのかな。それに対してシンジくんは「…ってことは僕の中にいるアスカの部分なんだね」みたいなことを言っていて。
松田:あー…うんうん。
みなと:だからまあ、たぶんそれが相補性とかそういうことなのかなって。シンジくんがアスカを直接経験しているそこまでは、まだなんとか相補性のある世界なんだけど、そこから先の
松田:うん、分かるよ。
“A” cannot be itself unless it stands against what is not “A”; “not-A” is needed to make “A” “A,” which means that “not-A” is in “A.” When “A” wants to be itself, it is already outside itself, that is, “not-A.” If “A” did not contain in itself what is not itself, “not-A” could not come out of “A” so as to make “A” what it is. “A” is “A” because of this contradiction, and this contradiction comes out only when we logicize.
Source: D.T. Suzuki(1996)『Zen Buddhism』Harmony
D.T. Suzuki(1996)『Zen Buddhism』Harmony
みなと:お互いがお互いを定義している感じって話を聞いて、僕はそれを思ったかな。なんかちょっと分かったわ。
松田:なんかさ…一般的に言う全体って部分の総和からなるわけやん? で、そのそれぞれの部分の本質っていうのはそれに内在的にあるものだと。だから部分について語るにはその中を見ていけばいいということになるんだけど…
みなと:うんうん。
松田:でもそうじゃなくて、部分について語るには他の部分も参照しなければいけないとなると、
みなと:とにかくシンジくんは相補性のある世界を望んでいたね。
松田:うん、えらいね。
2021年7月11日
Aux Bacchanales 紀尾井町
この記事をお楽しみいただけた場合、ワンクリックで任意の金額から支援することができます。
このリンク先でカートに入れた商品は、その売り上げの一部が commmon に還元されます。
また「誰が、何を何と同時に購入したか」は完全に匿名化されており、「何がいくつ販売されたか」以上の情報をこちらから確認することはできなくなっています。ご安心ください。
2021年3月8日に公開された、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』4部作の最終作にあたる『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。新劇場版シリーズの最終作であり、25年間続いたエヴァンゲリオンシリーズの完結作でもあるが、さまざまな理由によって公開時期が当初の予定から延期されており、公開までに前作から8年以上を要することとなった。
監督の庵野秀明は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の所信表明にあたって、旧劇場版以降「この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした」としている。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』『Q :3.333』版予告・改2【公式】 – YouTube