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認知の膜の拡げ方

4 years

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中垣:もうひとつ話したかったことがあるねんけど…認知の膜の話があるやんか

松田:はいはい。

中垣:ちょっとそれのアップデートじゃないけど、あの理論においてスポーツってどういうことなのかについて考えてて、これが結構上手く言える気がしてるのね。

松田:はいはい。

中垣:まず認知の膜について改めて話すとやねんけど、これは自分が認知してる世界の領域を表す「外側の膜」と、それとは別に自己効力感が持てる、自分が何かをできると思える領域を表す「内側の膜」の、この二種類の膜があるっていう話やねんな

「外側の膜」と「内側の膜」は、それぞれ「世界の膜」と「私の膜」とも言い換えられ、そこの表記は特に統一していません。適宜読み替えながら読み進めてください。

みなと:うんうん。

中垣:ほんでもうひとつ、その内側にも膜があって、この内側の膜っていうのが「私」をあらわすねん。表皮と一緒でその中が自分やねん。もちろんこう言うと「じゃあ肉体的な表皮がまさにそれじゃないか」ってなるねんけど、そうではなくて、例えば赤ちゃんのときは、服にケチャップをこぼしても自分で拭いたりはしないわけやん。

松田:うんうん。

中垣:赤ちゃんはそのままほっとくわけ。自分の知っている世界で起こった出来事として認知はしてるから、汚れたことを嫌がって泣くかもしれん、けど拭こうとはしないわけ。自分の認知している世界の中での出来事ではあるけど自分のことではないから、自分で拭いたり対処したりするものではないわけよ。でもこれが大人なら、自分の服になんか付いたら自分事として拭いて終わりなわけやん。

Source: commmon

c 二種類の認知の膜

中垣:そうしておくと…例えば禅マスターにとっては、世界を表す外側の膜は無限遠方にあって、かつ自分を表す内側の膜も、その無限遠方でピタッと接していると言えると。

松田:うんうん。

松田:禅マスターの場合は、無限遠方にある世界の外縁部分で「世界の膜」と「私の膜」が一致してるんやんな。私と世界が一致していて、かつそれが世界の現実的で物理的な広がりとも一致している。

中垣:そう。禅マスターのそれはもう宇宙といってもいい。

松田:宇宙と言ってもいい…!

ちさと:笑

Source: commmon

中垣:で、外側の膜と内側の膜が接している状態がフィット感のある状態やねん。そういう意味では、仮にかなり狭い範囲であってもそのふたつが接していれば、フィット感自体はあるような気がするねんな。

松田:はいはい。

中垣:ただそれだけだと認識できている世界があまりに狭いから、結局は犬畜生のそれだよねと。

松田:うんうん。

中垣:で…これはおれの仮説でしかないけど、ティーンまでの間に外側の膜は爆発的に広がっていく、つまりどんどん物事を知っていくわけ。

みなと:うんうん。

中垣:それでその後に、それに追いつくように段々と内側の膜も広がっていくんだけども、その程度はその人次第であると。

松田:はい。

中垣:それで内側の膜、つまり私の膜についてもう少し具体的に言うと、例えば赤ちゃんはその範囲がめっちゃ狭くて、自分の服についたケチャップさえ自分で拭こうとは思わないし、おむつを替えるのも泣いて親にやってもらうと。でもある程度大きくなるとそういうことは自分でできるようになるし、他にも自分の部屋にポイ捨てするやつはいないように、ある程度の範囲までは自分の力が及ぶ領域で、自分が責任を持つ領域だと考えるようになっていくと

みなと:うんうん。

中垣:あとは松田の言ってた例がすごい良かったと思うねんけど…

松田:あー、はいはい。

それがなんであれ何かに不平不満を感じるとき、その裏には、その不平不満の対象が自分にとって解決可能な課題ではない、あるいはその課題は自分以外によってのみ解決され得るという、一種の自己効力感の不足が存在していると思います。
例えば机の上からペンを落としてしまった場合、その事態に対して極端な苛立ちをおぼえる人はおらず、黙って拾って仕事なり読書なりに戻る人がほとんどだと思います。これはその事態がごく些細なものであり、その事態の解消にあたって自分が十分な能力を持っているという認識がある、つまり十分な自己効力感があることによるものです。
次に、これよりもう少し危うい例として、綿棒をケースごと床に落として中身が散乱してしまった場合を考えてみると、先ほどのペンの例と比べて苛立ちの程度や腰の重さがより強いことが予想されると思います。その事態の解決にあたっての手間を考えると、もちろんこれも当然のことです。それよりさらにひどい例としてはファンデを落として粉々にしてしまったなどがあると思いますが、ここで言いたいのは、事態が自分にとって容易に解決可能であるかどうかと、その事態に対する不平不満の強さというのは、おおよそ反比例の関係にありそうだということです。
このように、世界は自分を中心にそこから(物理的にも精神的にも)離れるにつれて、制御可能で十分な影響力を及ぼせる領域から、制御不可能で自分とは関係なく自律的に展開している(と思われる)領域までのグラデーション、言い換えると自己効力感を持てる領域から全く持てない領域までのグラデーションを描いて存在しています。このうち、最も自分に近く十分な自己効力感を持って積極的に働きかけられる領域が精神発達につれ拡大していくのではないかというのが、「私の膜」の要旨です。

Source: commmon

中垣:そうそう。だからそういう意味でいくと、安倍政権を批判するみたいなのも、その対象が自分の膜の外側にあると思っているからこそできるのであって…要はおむつを替えてほしくて泣いてるのと一緒だよねって。

みなと:うんうん。

中垣:まあそういう話を当時しててんけど、言うてもこれ、いまだに結構いいんじゃないかと思ってるのね。それでスポーツ、特にランニングみたいなゾーン系のスポーツについてやねんけど…

松田:インナー系スポーツね。

フットサルとか、そういうのじゃない系

中垣:そうそう。そういうスポーツってフィジカルなアクションをしている点では自己効力の賜物でしかなくて、そういう意味で私の膜を押し広げていってると言えると思うねん。それでその結果…もちろん全面的ではないにしても、一部分において私の膜が世界の膜と一致するようになるから、フィット感がすごく高まると思うのね。

みなと:うんうん。

中垣:その上ひいては、私の膜が世界の膜と重なったまま、世界の膜ごとどんどん押し広げていくことになるんじゃないかって

松田:あー…

中垣:そういうふうにして強制的にフィット感を得るみたいなところがあるんだろうなと、そう思ったわけですよ。

松田:そうね…私の膜が世界の膜と一致するのはこれは分かるねんけど、そこからさらに、一致したまま押し広げていく感じがあるっていうのが、分かったようで分かってない気もするねんな。

中垣:なんやろな。例えばこの前の自転車で山を降りてたときとかって、世界の膜もグググッと広がってる感じがあったと思うねんけど…

Video: commmon

@オーバカナルの裏山

松田:あー…そうやね、確かにそれはそうやな。世界の膜が広がった瞬間に自分の膜がそれについていっているというか、完全にフィット感を伴ったままに世界の膜が広がり続けている感じはあるな

みなと:あー。

松田:うん、しっくりきたわ。

みなと:あとはあれだね、前のダンスとかもそんな感じだったわ。

中垣:あー、そうやね。

日頃の言語偏重を反省し代々木公園でTikTokで流行りのダンスを練習した黒歴史回があってですね…

松田:確かに。

中垣:だから…もちろん言語化とまではいかないんだけれど、新しい世界を認識はしているというか

松田:そこに今まで知らなかった世界があることを認めているという感じは確かにあったね。

中垣:そうそう。「これはなんや…?」と思いながら、先にどんどんインプットがやってくる感じ。

松田:うん、確かにな。じゃあやっぱ身体を動かすのってええんやね。

c インテレクチュアルとフィジカルの乖離

中垣:めっちゃいいよ。ただまあ、特効薬でしかないとところはあると思うけどね。あとは別にスポーツじゃなくても他にもいろいろあると思ってて、例えばおれは車中泊しながら車で知らん土地に旅行に行くのが好きやけど、それとかもそういう感じがあると思うねん

みなと:うんうん。

松田:確かに、車での旅行はそれありそうやな。

中垣:だってどんどん知らん景色が広がってくるねんし、かつ確実に自分がそこまで運転して来てるわけやんか

松田:おれさ、小中学生の頃に自転車で旅行してたの、すごいその感じやったわ。

中垣:うん、乗り物ってやっぱそうやんね。

松田:自転車に乗ってるときは世界を征服していってる感じがあったもん。あれはもうアレクサンドロス大王ですよ、ほんまにそういう気持ちやった。

アレクサンドロス大王 東方遠征
Image: 世界の歴史まっぷ

アレクサンドロス大王 – 世界の歴史まっぷ

中垣:笑

みなと:なるほどね。

中垣:でも幼少期って何をしてもその感覚になれるやん。外側の膜が狭い分、それが広がるのは具体的なアクションを通じてでしかなくてさ。

みなと:うんうん、そうだよね。小さい頃は外側だけバーっと広がっていくのってあんまり考えられないよね。

中垣:ただそれが一定程度広がると、今度は段々と外側の膜と内側の膜との間の空間ができてくるわけで…

松田:受験勉強をすると、これはもうあかんね。

中垣:やっぱそこやんね。そこだけ広げていく方法を覚えちゃうんやね。

松田:だから理想は、偶然とかによって最終的な結果が当初の想定からずれたとき、どうしたら想定通りになったんだろうっていう反省はきちんとしながら、とは言え結果は結果として受け入れることができればいいですよね。

コトハ:そう、そうそう。

松田:で、それができないのが僕らなんです。自分の手で何かを作るのが本当にできないんです。

コトハ:うんうん。

松田:それがなんでかって…最初にゴールを描いてそのための手順をきっちり組むんですけど、そもそも想定さえできていない何かもあれば偶然起こるトラブルもあって、当初の想定通りにゴールすることはまずないわけですよ。

コトハ:うんうん。

松田:このとき、なまじ当初の想定がしっかりしてるから、そのギャップにどうしても耐えられなくて…

中垣:「やーめっぴ」ってね笑

松田:そう、その結果何も作れなくなりました。

中垣:元々は手を動かして何かを作るのはすごく好きだったはずなのに…

Source: commmon

c 頭で考えるだけじゃ作れないもの

松田:世界の膜だけ勝手に広がっていってまうねんな。「コンゴ川流域は典型的な熱帯雨林気候(ただし行ったことはない)」みたいなね。

みなと:うんうん。

熱帯雨林気候 – Wikipedia

中垣:だからそういう意味でいくとね、これ前にも言ったけど、参考書とかで似た問題を大量に解かされるやつ、あれ嫌いやったけど、でも意味はあると思うねん。

松田:はいはい。

中垣:チャプターの最初で伝えられる定理とか例題とか、あんなん何の意味もないねん。それを模写することで初めて自分のものになっていくねん

みなと:うんうん。

松田:うん、あれはそういう感じがすごくあったな。

中垣:実際あれするだけでテストの点数は取れるねんけど、でも逆に、あれをせんかったら点数は取れないわけ。

みなと:そうだね笑

このサイト、高校生に刺さるまでありますね(ない)

中垣:やっぱそういうことやねんな。だからまあ、そこがキチッと一致したまま世界が広がっていくような何かに注力すべきなんだろうと思うな。

松田:うん、そうやんね。でも最近の中垣が自転車にはまってる感じとかはまさにそんな感じやん。

中垣:うんうん。あとは例えば本の読み方でもさ、もちろん本を読んでるだけやから形式的には外側の膜だけが広がっているように思えるけど、でもたぶん、読み方ひとつで全然違う気がするねん。外側だけが広がるのか、内側と外側が一致したまま広がっていくのか。

松田:はいはい、それはあると思う。

中垣:だってそれこそ小説やとさ、それを読んで外側の膜だけ広がってるやつなんかおらんやん。別に知識を得るために読んでいるわけじゃなくて、主人公に感情移入しながら読んだりするわけやねんから。

みなと:確かにそうだね笑

中垣:あとは…例えば鈴木大拙の『禅』を読んでさ、それで外側の膜だけ広がっても何の意味もないやん。別にそういう意味では何が書いてあるわけではない本やし。

松田:うん。

鈴木大拙(1987)『禅』ちくま文庫
Image: Amazon.co.jp

鈴木大拙(1987)『禅』ちくま文庫

中垣逆に新書とかは外側の膜を広げるためだけにできてるやん。それの演習は日々のビジネスなりあなたの日常の中で実践してくださいっていう本なわけで。

みなと:うんうん。

中垣:だからそういう読み方しかしてない人やと、『禅』とかは読めないよね。

松田:確かにね。てかおれが一日中スターバックスで読書してた時期とか、内側から押し広げるような感覚は確かにあった気がするな。だから逆に、事実だけを書いてるような本は今でも読むのが苦手かもしれん。

中垣:うんうん。

松田:「…だから何?」ってなっちゃう。

中垣:それは分かるわ。なんか…どこまでもよその話やもんね。てかさ、松田が雑誌を嫌いなのってその説ない?

c 雑誌も動画もあんま好きじゃないんだよな

松田:あー…いや、確かにちょっとある気がするな。なんかどこまでいっても他人事にしかならへんねんな。これが例えばSSENSEなら、ログインしてブランドなりカテゴリを絞り込んだ時点でこっちからアプローチしてるから、単なる事実ではない自分事として情報が入ってくる感じがあるねんけど、雑誌はどうしても「あ、そうなんですね…」くらいの気持ちにしかなられへんねんな。

SSENSE

中垣:まあ松田にとっては不要な情報になったってことなんじゃない? 昔なら別に、血眼になってカジカジを読んでたわけで。

松田:確かに。

当時は服に興味があることは分かっていてもその焦点がより明確ではなかったから、とにかく服に関係あるものであれば全て自分事だった一方、現在は服への解像度も高くその焦点も明確なので、ざっくりとファッション雑誌と言われても「大味かよ」となっちゃう、そういう説です。

中垣:でもさ、テキストを読んでるときに内側の膜ごと世界を広げていくのってなかなか高度なことやと思うねんな。もちろん本の内容がそのときの自分にはまったらそうはなるねんけど、自分の身体を動かしていない以上、やっぱりある種のテクニックが必要な気がして。

みなと:うんうん。

中垣:例えば松田がスタバで本読んでたときの感覚って…そんなスラスラは読まれへんわけやん。

松田:うんうん。

中垣:それこそウンウン言いながら読む感じになるとは思うねんけど…どういうふうに読んでたん? 読んでたときの感覚というか、あるいは読むスピードとか。

松田:読むスピードはそら遅かったし…あとは読んだ内容を自分の中で抽象化あるいは具体化するとどういうことになるのか、みたいなことを考えながら読んでたかな?

中垣:ふーん。

松田:抽象的なことが書かれているのならそれを自分の知っている具体と結びつけるし、具体的なことを言っているのであれば自分の言葉で抽象化して…って感じで。

中垣:うんうん、なるほどな。あとなんか、最近ネットサーフィンしてて思うのがさ、例えばこの前の東浩紀のインタビューあったやんか。あれおれからおすすめしてんけど、おれは半分くらい読んで「続きは後で読もう」と思ってタブを開いたま放置しててんな。

松田:はいはい。

【楠木】インターネットの時代になって、情報材を扱うB to Cの商売の実態は、ほとんどの場合、広告業もしくは販促業です。広告業の生命線はユーザーの数です。これはラジオやテレビの時代からまったく変わっていない。見ている人がたくさんいるほど、プラットフォームとしての価値が高まり、広告主を集めやすくなり、広告収入が得られます。どうしたらユーザーの数を集められるか。いちばん手っ取り早いのはタダにすることです。こうした成り行きで、「ネットの情報はタダ」が当たり前になりました。

とにかくスケールさせなければならない。しかし、ユーザーから直接カネは取れない。十分な規模に至るまでには時間がかかるので、情報サービスのスタートアップ企業の多くは、まずは「赤字を掘る」ことになる。それはそれで一つの手口なのですが、赤字を掘ったその先にきちんと商売が成り立つかどうか、長期利益につながる首尾一貫した戦略ストーリーがなければいけない。

筋の通った戦略もなく、集めた原資をひたすらプロモーションに投資し、漠然とした楽観にもたれて目先のユーザー数を伸ばすことにかまける会社が多いですね。広告で儲けようとしているのに、自分が広告費を払う側に回ってしまっている。揚げ句の果てに、一定のユーザーを集めたところでどこかに事業を売却して、手じまいにする――これを最初から目的としているフシがあるスタートアップも珍しくありません。

私に言わせれば、これは商業道徳に反しています。しかし、当人にその意識はない。それどころか、「先端的」なことをやっていて、称賛される価値があるとさえ思っている。ずいぶん規律が緩んでいると思いますね。

Source: PRESIDENT Online

何でも無料のインターネットは、「商業道徳」を無視しすぎている – PRESIDENT Online

c いいと思うのなら対価を払え / いいと思うのならタダにするな

中垣:それで結局は最後まで読まんかってんけど…それがたぶん、自分にとっての賞味期限やったんやろうなってすごい思って。

松田:あー、はいはい。

中垣タブを放置するまではおれは内側の膜と外側の膜を同時に広げながら読んでてんけど、改めて続きを読もうとすると、外側の膜だけを広げるために読む感じになっちゃうねんな。

松田:うんうん。

中垣:それはどんな情報でもそうで、おれは結構タブを開いたまま放置しちゃうタイプやねんけど、そうやって放置されているタブにはたぶん何の意味もないねん。タブを開いて読み始めて、「続きは後で読もう」と思った瞬間がもう終わりやと思うねん。

みなと:なるほどね。

クローム タブ 100個以上
Image: SMATU.net

一生これ

Googleクロームでタブを99個以上開くとどうなるの!? – SMATU.net

中垣:最近そのことに薄々気付きつつ、でもまだやっちゃうねんけどね。でも、そこはもったいないと思わずに切り捨てるべきやねん

松田:それはまあそうやな。

外側の膜だけ広げる行動、全てにおいてなんかセコいというか、手前の人生を素手で掴む勇気はないくせに選択肢だけはたくさん確保しておこうという態度の表れな気がしますね。

松田:てかさっき言われてからちょっと考えてたけど、おれが本を読むときの気持ちって、そば食うときとかバゲット食うときの気持ちに近いかもね。

中垣:あー…

松田:こういう香りがするとか、こういう要素があるとか、これはあそこで食べたあれにも似てるな、とか。その上で「おれはこれが好き」とか「嫌い」とかって話になるわけ。

みなと:あー、なるほどね。

中垣:それ食事でやってんのってやっぱ独特やな。

松田:でも確かにそうやねん。別におれはそばとバゲットが好きなんじゃなくて、そばとバゲットはそれがしやすいから好きやねん。つまりどこでも同じ形で出てくるし、何を比較すればいいかも分かりやすいやん。

どこで食べても見た目や構成が同じで、どのお店も同じ価格帯で勝負するしかないメニュー、他にあれば教えてください

c お問い合わせ

みなと:笑

中垣:松田さ、音楽ではそれせんやん? 基本的には耳が気持ち良い音楽が好きやろ。

松田:うん、それはそう。

中垣:おれにとっては食事がそれで、逆に音楽は松田にとってのそばやねん。

中垣:もちろん、いわゆるええ食事が美味しいのは分かるし、頭で考えたらその複雑さを楽しむこともできるねんけど、おれの偏光板は最終的には純粋に味覚的な経験しか通さないねん。「はい王将の勝ち」みたいな。

Source: commmon

c ほとんど初めて食事に感動したかも

松田:あ、なるほどね? それすごいしっくりきたな。

中垣:そうやねん。

2021年5月19日
Clubhouse

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HeaderImage: commmon

オーバカナルの裏山で中垣の自転車に乗る河東。友達が中古で買って少しづつカスタマイズしている自転車で身近な自然を駆け巡る様は、「私の膜」と「世界の膜」を、両者の乖離のないまま拡張していくまさに理想的な姿である。
一方 commmon には、走行距離が10kmにも満たない、一度も外したことのないカプラー付きの、アルミ削り出しパーツを多用した自転車を持て余す人もいるわけで…