中垣:あ、おれ話したいことあった。2個あるわ。
松田:はいはい。
中垣:まずひとつ目ね、
松田:それおれも行ったよ。やかんのUFOみたいなやつやろ。
中垣:おれから言わしてな笑
松田:うんうん。
中垣:「これはあれやろ、リサイクルショップディグしてるときのあの気持ちやろ」って。
松田:それはそう。
中垣:ほんで柳宗悦、こいつめっちゃ金持ちやんけと思ったのね。だから20世紀初頭にあれができて、そのおかげでレガシーとして今でも残ってるけど、
中垣・長尾・中村、ディグ三大巨匠です
松田:うんうん。
NIGO(2012)『ATELIER BY NIGO』マガジンハウス
中村ヒロキ(2018)『My Archive』マガジンハウス
中垣:しかもあの展示で置いてた壺とか、もちろん好きなのもあったけど全然好きじゃないのもあった。
松田:うん。
中垣:それをわざわざ展示せんでもええというか、大事なのは柳宗悦をオーソリティーとすることでも、彼が集めた何かを綺麗に展示することでもなくて、「みんなもこういうふうに物と向き合ってみよう」ってことであって。
松田:それはそうやな。
中垣:あの展示の仕方は全然違うやろと思ったし、やるならやるで素材を書けよと思ったのね。
松田:うんうん。
中垣:笑 内定式の会場がペニンシュラで、内定者100人くらいが集まっててんけど、そこで出てきたスプーンが普通のステンレスじゃなくて、なんか重いし、すごいシルバーっぽかってん。滑りも悪くて。
河東:はいはい。
酒井:笑
中垣:それがすごい気になってて。で、知り合いが同期におったから一緒に喋っててん、「このスプーンなんか違くない?」って。その子は彼氏がそういうやつやから慣れてるねんけど。
松田:うんうん。
中垣:でもその話を聞きに来た他の女の子とかは「うーん…」みたいな顔してどっか行くし…
倉留:笑
中垣:なんで?って。そんな内定者同士のわちゃわちゃより、このスプーンが違うってことにみんな気付くべきじゃない?って。
Source: commmon
中垣:「これは柳がどのような目線を向けて集めたもので~」とか書いてたけど、そんなんどうでもいいねん。
松田:うん、でもそれは思うな。
中垣:あ、そうなんや。
松田:ずっと前に読んだ本ではええこと言うてたよ。民藝に見出されるのは無私の美みたいなもんで、そこには名前もオーソリティーもないと。なんやったっけな…なんか丸みたいな模様の皿について、作る人が
中垣:はいはい。
私は同じようなことを、今眺めている一枚の皿についていうことが出来る。それは貧しい「下手」と蔑まれる品物に過ぎない。奢る風情もなく、華やかな化粧もない。作る者も何を作るか、どうして出来るか、詳しくは知らないのだ。信徒が名号を口ぐせに何度も唱えるように、彼は何度も何度も同じ轆轤の上で同じ形を廻しているのだ。そうして同じ模様を描き、同じ釉掛けを繰返している。美が何であるか、窯藝とは何か。どうして彼にそんなことを知る智慧があろう。だが凡てを知らずとても、彼の手は速やかに動いている。名号は既に人の声ではなく仏の声だといわれているが、陶工の手も既に彼の手ではなく、自然の手だといい得るであろう。 彼が美を工夫せずとも、自然が美を守ってくれる。彼は何も打ち忘れているのだ。無心な帰依から信仰が出てくるように、自から器には美が湧いてくるのだ。私は厭かずその皿を眺め眺める。
(中略)
反復は熟達の母である。多くの需要は多くの供給を招き、多くの製作は限りなき反復を求める。反復はついに技術を完了の域に誘う。特に分業に転ずる時、一技において特に冴える。同じ形、同じ絵、この単調な循環がほとんど生涯の仕事である。技術に完き者は技術の意識を越える。人はここに虚心となり無に帰り、工夫を離れ努力を忘れる。彼は語らいまた笑いつつその仕事を運ぶ。驚くべきはその速度。否、速かならざれば、彼は一日の糧を得ることが出来ぬ。 幾千幾万。この反復において彼の手は全き自由をかち得る。その自由さから生れ出づる凡ての創造。私は胸を躍らせつつ、その不思議な業を眺める。彼は彼の手に信じ入っているではないか。そこには少しの狐疑だにない。あの驚くべき筆の走り、形の勢い、あの自然な奔放な味わい。既に彼が手を用いているのではなく、何者かがそれを動かしているのである。だから自然の美が生れないわけにはゆかぬ。多量な製作は必然、美しき器たる運命を受ける。
Source: 柳宗悦(1984)『民藝四十年』岩波文庫
松田:そういう美しさを見出せるっていうのは、なかなか確かに豊かなことだなと、そう思わされたのね。
中垣:はいはい。
松田:だから、彼があれを実践したその思想みたいなのはええし、そこから学ぶことは少なくないとは思うねん。ただそれをああいうふうに紹介すると…どうなんやって話は間違いなくあるよな。
中垣:うんうん。
松田:あとはさ…
中垣:あー、あったね。
松田:そう、だから言うて本人もそういう自意識捨てられてへんかった説は全然ある。「警察に職質された~」みたいなエピソード、そらそうやろって感じやし。
太郎:御一行っていうのは?
松田:なんか柳宗悦を筆頭にチーム民藝をやっとった仲間達がおってんけど、彼らはみんなツイードのジャケットを着て、何かしらの布で作ったおそろの巾着バッグを持って…みたいな感じやったらしいねん。ほんで揃いも揃ってその格好で地方に繰り出して民藝ディグをやってたらしくて、そのときの写真とか実物の服とかが展示されてたのね。
ツイードの三つ揃いスーツ、蝶ネクタイに丸眼鏡、ワークウェアとしての作務衣―民藝の人々はみなスタイリッシュでお洒落でした。
Source: 民藝の100年
太郎:なるほどね。
中垣:あの写真はキモかった、だいぶ痛いよ。
松田:あとは何より…全然他人事じゃないからね。
中垣:笑 まあやらんけどね。
松田:笑
中垣:あとはなんか…前にも話したけど、
松田:はいはい。
中垣:もちろんそれ自体も創造的なことではあるんだけど、責任の所在を問われたとき、編集っていうとばっくりしてるわけよ。
太郎:はいはい。
中垣:
松田:うんうん。
中垣:そういう意味で、編集っていう仕事はボヤッとした部分があるというか。もちろんそういう軟派さも良さのひとつだとは思うんだけど。
太郎:はいはい。
中垣:だからしっくりこなかったっていうのもあるな。例えば美術館でモネが展示されてたら、やっぱり見る価値はあるわけ。油絵具ののり方とか「何を考えながらこれを描いたんだろう」とか。
松田:うん。
中垣:でもあの皿を見ながら「彼はきっと…」とはなかなかならないわけ。
松田:うんうん。
中垣:そんな立派なものではないというか…モネとかと同じスタンスでやる展示ではなくない?って。
この展示は、民藝品というよりはむしろ民藝運動に焦点のあたったものであり、当時の社会情勢やデザインの潮流と照らしながらその誕生から展開までを追っている点、また美術館・出版・流通からなる民藝運動の手法とそこで協働した人々を網羅的に紹介している点からは、逆説的にのみ価値がありそうな印象の作品や、民藝という言葉自体が先行しがちな民藝運動を、十分丁寧に解説していたと言えると思います。
一方で「生まれた瞬間から今に至るまで、言われんでもやってるんよ」というスタンスで、民藝運動よりもそこにある皿そのものに興味のあった中垣・松田にとっては、全然おもしろくなかったという話になるのでしょう。
中垣:まあ全体を通して「おれも頑張る」ってなったな。あと二つ目の話やねんけど…
松田:せやな。
中垣:ただ、ちょっと注意しようと思ったのね。解像度っていうのはさ…つまり仮に何かに本質みたいなものがあったとき、解像度を高めていけばその本質にリーチできるみたいな話やと思うねんけど、
太郎:うんうん。
中垣:解像度が4Kになろうと32Kになろうと、今見て感じるこれを再現することはできないわけ。
松田:間違いない。
暖かな陽の光を受けて揺れる街路樹、微かに香るシガーの紫煙、キッチンから聞こえる食器の重なる音…ああ豊かなるかな日曜日のテラス
AUX BACCHANALES – The New Otani
中垣:で「なんで再現できないんや…そっか気温か、じゃあ気温を足そう」「まだ再現できない…そっか匂いか、じゃあ匂いを足そう」ってやっても、どこまでも今感じているこれにはならないわけ。
松田:うんうん。
中垣:その姿勢を持って初めて、それを再現することに対するサイエンス的な欲望とか、その実体を概念的に分節していくことに意味があるわけ。でもそこをすっ飛ばして、解像度が低い高いだけの話をしてると…
松田:結局はどつきあいになってまうもんね。
中垣:そうそう。だから解像度って言葉も安易には使わんとこうと思って。
松田:かなりミスリーディングなところはあるよね。まずは前提として、
太郎:笑
中垣:解像度うんぬんって話から入ると、どうしても濃縮還元っぽい話になっちゃうもん。
2022年2月6日
Aux Bacchanales 紀尾井町
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柳宗悦により1926年に企画され、紆余曲折を経て1936年に開設された日本民藝館。柳は初代館長に就任し、ここを活動の拠点として様々な展覧会や調査研究を展開していった。
入館料が結構高い。