中垣:そうやそうや、
松田:はいはい。
なぜか持ってくる本ではないぞ
中垣:それで、『意識と本質』の章についてはちゃんと読んではないねんけど、
松田:うんうん。
以上のように解された絶対無分節態と、その絶対無分節者がそのまま直接無媒介的に顕現して成じた分節態との間に、本来的な禅の言語は働く。仏教の術語を使えば、聖諦(paramarthasatya)と俗諦 (samvrtti-satya)との間の振幅が、禅的言語の展開する場面である。聖諦とは存在の絶対非分節的次元であり、俗諦とは言語的に分節された存在の次元である。洞山良价禅師の嗣、曹山本寂禅師は「正位は即ち空界にして本来無物、偏位は即ち色界にして万象形あり」と言う。聖諦と俗諦の間を往来する禅的言語は、また洞山の立てた「正位」と「偏位」の間の消息としても捉えられよう。
禅的言語は必ず聖諦から発する。聖諦から発出した言葉は、一瞬俗諦の地平の暗闇にキラッと光って、またそのまま聖諦にかえる。この決定的な一瞬の光閃裡に禅的言語の有意味性が成立する。
Source: 井筒俊彦(1991)『意識と本質』岩波文庫
「この決定的な一瞬の光閃裡」、この連続の中で今日を生きたいですね
中垣:ただこれ、おれはそんなに難しくないとは思ったけど…でもそれでも難しいわけ。
松田:そやね笑
し‐ゆい【思惟】
(シイとも)〔仏〕考えめぐらすこと。心を集中させること。「五劫―の阿弥陀仏」
Source: 新村出編(2008)『広辞苑 第六版』岩波書店
中垣:それにおれも微妙なところはあって、「まあこれはこういうこと…なんでしょう」って感じで読んでる部分もあるから、そこがどういう意味なのかを松田に聞いて…っていうのをしていくのはいいんじゃないかと思ってん。
松田:はいはい。ええで、なんでも聞いて。
中垣:…でもこれちょっとしんどい気もしてきたな。どうやって進めるのがいいんやろう。
松田:笑 まあ全部を二人で追っていくとしんどいから、「ここがちょっと…」みたいなのを、最も理想的には何周かやることで、最終的にはおおよそ掴めたみたいになるのがええんかな。
中垣:そもそもこの本の形じゃなくて、章を丸ごと印刷してきて一部ずつ手元に持つみたいにせんとあかんよね。じゃあまあ今日はいいや。
松田:そう、やっぱ上手いよな。なんしか上手い。
上手いとしか言えない下手さよ
中垣:要はさ、まずありありとした何かを見たり経験したときにさ、それを言葉にすることを、ハイデガーはポジティブに捉えた一方で禅はネガティブに捉えていて、でもそれは同じことの表と裏なんだと、そう言うわけやん。
松田:はいはい。
中垣:そうやって
松田:うんうん。
中垣:つまり、通りやすいところもあれば通りにくいところもあるカオスの中で、なんとなくルートを選んでそこを踏んでいくと。
松田:うんうん。
中垣:で、それを見た人が「確かにここ通りやすいかも」って思ってそれに続いて、それがやがて踏み固められて道になると。言葉もつまりそういうもので、何かを概念としてコミュニケートしたいと思った人によって言葉が生み出されて…
松田:そうそう、そうやねん。
中垣:で、そのようにして踏み固められた道はやがてアスファルトで舗装されるんだけどその代わり、地形が変わって別のルートが通りやすくなっても、目的地が変わってその道が遠回りになっても、誰でも通れるように舗装されているその道を通るしかないみたいなことが起こるよねって。
松田:はいはい。
中垣:で、我々が「夢」とか「生産性」とか「自分」みたいな言葉に苦しめられるのも、そのアスファルトで舗装された道を通らざるを得ないからだよねっていう。
松田:うん、間違いないと思うよ。既に舗装された道を通るにしても、あくまでそれが排他的に妥当な場合にのみそうするべきなんだけれども、誰もがそれをできるわけでは決してないからね。
Source: commmon
c 言葉の意味
中垣:
松田:うんうん。
中垣:で、それを否定するために禅は禅問答の中で、「師よ、これはどういう意味ですか」って聞いたら全然違うことを言われるみたいな、
松田:はいはい。
中垣:そういうことを言っていて「うん、それはそうやんな」と思ったわけ。まあすごい分かりやすかったなって話。
松田:死んだ言葉な、それはそうやんな。まあ言うたらダートと環八ってことやんな。
中垣:どういうこと?笑
松田:つまり物流を担うトラックにとって環八は生きた道なんだけど、自転車にとってはそうじゃないやん。自転車にとっての道はまさにダートにこそあるわけ。
青山霊園にもある
c 青山霊園でマウンテンバイクで遊んだら楽しそうやなと思ってて…
中垣:あー、そうやね。ただでもさ、本質についてはそんなに語られていなかったというか…
松田:あー、はいはい。
中垣:それこそ山と川の話には触れられてなかったし…あとはおれ、これを読んでもやっぱり思ってんけどさ、山と川の話の最終フェーズの「やっぱり山は山で川は川だ」ってあるやん。そうすると例えば、
松田:はいはい、なるほど。
仏教の哲人は明言する、「“シューニヤター”を体験する前は、山は山であり、川は川である。だが体験してのちは、山は山ではなく、川は川ではない。しかし体験が深まる時、ふたたび山は山であり、川は川である。」これには註を補う必要があろう。哲人が、“シューニヤター”の体験によって、山は山であることをやめ、川は川であることをやめるという時、その体験は、そのもっとも深いところに達したとは言いがたい。それは、なお知性の働きの面にある。そこには概念化の跡が見られる。最後の一塵まですっかり払い尽されてはいない。“シューニヤター”が真に“シューニヤター”(空)である時、それは、“タタター”(如) と一つになる。
Source: 鈴木大拙(1987)『禅』ちくま文庫
中垣:まあええねんで。本人的にしっくりきてさえいれば別にいいとは思うねんけど、でもそんなことはあり得ないと思っていて…
松田:うんうん。
中垣:あとはこれ、言葉は道だって話をしたときも言っててんけど、世の中は別に草原じゃないと。そこには起伏があって、だからこそ、そこに道ができたりできなかったりすると。
松田:はいはい。
中垣:だから最終フェーズの「山は山で川は川だ」っていうその言い方だけを見ると、草原とか仮想空間でも成立するような言いようやと思うねん。つまり宇宙空間で「おれは今山を見た」って言ってもいいような…でも、そういうことではない気がするねんな。
松田:まあそれで言うとね、
中垣:うんうん。
松田:つまり「このコップは山だ」と言うやつが目の前にいて初めてそれが主題となるというか。
中垣:はいはい…だから if の話はしないってことやんな。
松田:そうやね。
中垣:あー…そういうことね。だから具体を語る上では、その人の生物的なそれなのか何なのかは知らんけど、基本的にコップを山だと思うやつはいないから結果として問題にはなっていないというか…
松田:でも、言い出すやつがいたら主題にはなるし、そのことは禅にとって問題ではないと思うよ。
中垣:うん、なんか分かったよ。だから禅が具体しか語らない以上、観測されない事実については語らなくて…
松田:まあ禅に言わせたら「そんなこと知らん」ってなるんじゃない? でも、
中垣:やっぱどつくんや。
松田:トリッキーな屁理屈を他人に主張してる時点でね、もう悟りには程遠いもん。
中垣:うんうん。
松田:
そもそも悟りは信念ではなく事実です。そのため一度気付いた以上、その気付きは不可逆であり、また何かによってテストされる必要も、誰かによって認められる必要もありません。
中垣:まあまあそうやね。だからまあ、おれは禅の言い方は知らんねんけど…
松田:あー…それで言うと、禅にそれはないな。
最も具体的なものをもってそれがそのまま究極の抽象に転ずる禅にとって、はじめから抽象を志向することは、必要でも有効でもないのです。
何が具体か何が抽象かと云ふことは、その人の考へ方、見方によりて相違すると思ふ。例へば、此処に一つの茶碗があると云ふ、又向うに雀が四羽電線の上に集まつて居ると云ふ。これほど具体的なはなしはないと考へられる。すべて感覚上の経験は具体的で、それが一旦思惟に上せられると抽象的になると云はれる。ところが、これが果してさうかと云ふに、此感覚上と云ふのが甚だ具体でないのである。独尊者その人の動きからと云ふと、「此処」とか「其処」とか云つて、空間に区切りをつけたり、雀とか茶碗とか云つて「個」的限定をやることは、頗る抽象的なことなのである。こんな限定は独尊者の与かり知らぬところである。即ち独尊者と云ふものから引き離して考へたところから、「此処」があり、雀が出るのである。雀と云ふ「個」は思惟を経た抽象体である。「此処」と云ふも同じ道理である。独尊者の本体は此処にも居なければ、雀でもないのである。それ故、彼は此処にも在り、彼処にも在り、雀でもあり、電線でもあり、ペンでもあり、何でもかでもあり得るのである。
Source: 鈴木大拙『時の流れ』
世間では独尊者は抽象的思惟の結果であると云ふ。併し、今一つの観点からすると、即ち雀と云ふも既に抽象的であると云ふ方面から見ると、独尊者と云ふものほど具体的なものはないのである。それで宗教者ほど具体的世界に棲んで居るものはないと云へる。親鸞聖人など世間は虚仮で、何もかもそらごとであると云はれるが、実にその通りである。「虚仮」とか「そらごと」とか云ふのは、抽象的だと云ふ言葉に外ならぬ。又世間では哲学者を抽象的概念の請負業者と見て居るものもあるやうだが、なるほど或る哲学者はさうだとも云へるであらうが、中には全くさうでないのもある。此見分けをするには、やはり独尊者を体認したものでなければならぬのである。而して具体的なものほど普遍性をもつて居るのである。抽象性を帯びたものは、どこかに主観性を隠して居る。而して此主観性の故に一般的には受けとれないのである。自分の考では、普通の人の見方を逆にせぬと、真実の世界――それが即ち最も具体的なるものであるが――、それへは入ることが出来ぬと云ふのである。これが出来ぬと、「思想善導」など云ふことはとても口にすべきでない。
中垣:そう。でもおれは最後にそのニュアンスが欲しかってんな。
松田:例えば…まあテラスで茶をしばくとかならともかく、例えば講演会とかには禅はないねん。そういう意味でやっぱり our people みはないよ。
中垣:あー、まあそうやね。
松田:それに対して、独善的だという批判はもちろんあり得るとは思うんだけど、
中垣:あー、まあ分かるねん。確かにそうやとは思う。
松田:笑
中垣:でも if の話をする必要が無いっていうのはそうやと思う、そうやんな。それはそうやん、
松田:うんうん。
中垣:だからあえてその前提を問題にするというか…言葉で語りようのない if の話を持ち出して、そこにも共有できる何かがあるみたいに言う必要はないんじゃないかっていう、それは確かにその通りやと思うね。
松田:うんうん。だからまあ…どろっとしたこの世界から、必要に応じてエッセンスを抽出して言葉を行使はしますけれどもっていうね。
中垣:ただでもさ、それって結局は程度問題かなとは思うねんな。
松田:あー、なるほど。
中垣:例えば…いや、でもそうか。別に禅は説明はしないからいいんか。そうかそうか、確かにな。
松田:そう、だからこそじゃないけど鈴木大拙は偉いね。どこまでも明確に語っているし、しかもときに全く矛盾する表現で同じことを説明しながら、一向にしれっとしてるのも偉い。
中垣:はいはい。
太郎:今の小学校での歴史の教え方は間違ってるんじゃないかって言う有識者は多いけど、とは言え「織田・豊臣・徳川」みたいな感じで最初は入らないと、結局何も教えられないというか…
松田:うん、それはそうやんね。
太郎:そこはジレンマだよね。
Source: commmon
松田:確かに禅を語るのは嫌やねん。
中垣:うんうん。
c 禅的公共観
松田:それを語った瞬間、耳から聞こえてくるそれは自分が確信しているものではなくなっているわけ。だからそういう気持ちになるのは確かに分かるんだけど…でも禅でも悟りでもまあなんと呼んでもいいんだけれど、
中垣:うんうん。
みんなも絶対に悟り開いといた方がいいよ。MBAよりずっといいよ
松田:まあでも分かるよ。「すげえ美味しいご飯を食ったからその証拠にこれを見て」って言ってケツから出てきた物を差し出すともう全然違うっていう。おれのあの感動はどこにいったんだって。
中垣:そういうことやんね笑
2021年6月27日
Aux Bacchanales 紀尾井町
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